2006年02月12日

【街角考現学・第9部】表参道ヒルズ(旧同潤会青山アパート)オープン! ~原宿・表参道の新たなまちづくり施策とランドスケープデザインの変遷~

 昨晩放映されていた出没!アド街ック天国は、「表参道」特集であった。11日にオープンしたばかりの"表参道ヒルズ"にスポットをあて、生中継を含む特集であった。表参道の並木道に斜度を併せたという表参道ヒルズ内のスロープ、そして並木の高さと併せたという建物の高さは"スカイラインの美"と呼べるか、建築家の思いが込められているようである。

cf.「Yahoo!ニュース - 表参道ヒルズ開業

 昨年12月には表参道駅の地下に巨大なモールが出現したばかり。その名を「エチカ表参道」といい、パリの市場をイメージしてつくられたものだという。

 毎年「東京デザイナーズウィーク(デザインアソシエーション)」の時期になって表参道周辺を散策するに、ブランド物には関心の薄い私でさえその名をよく耳にするような、世界を代表するブランドの旗艦店と思しき店構えの豪奢な店舗が一つ、また一つと増えてゆくような光景に出くわすようになってきた。世界に誇るブランドストリートとして、東京の新たな顔としても十二分な役割を果たすこととなった。

cf.「フィリップ・スタルクとバカラのコラボレーション

 地上6階・地下6階建て、総事業費189億円という「表参道ヒルズ」の大掛かりな事業を手掛けたのは森ビル、設計はかの安藤忠雄氏である。少し前から新聞や雑誌などで採り上げられることが多くなってきた表参道ヒルズ。その全貌が11日、ついに私たちの目の前に公開されることとなった。

 新聞の記事に寄せた森稔氏は――、

「これは単なるアパートの再開発ではなく、地域そのもののさらなる発展に寄与する都市のルネサンスです。コンセプトは"メディアシップ"。表参道ヒルズは、商業施設としてではなく、人と人、人と空間、人と街、街と世界をつなぐ、新しい形のメディアとして、新たな価値、表現を生み出していきます(読売新聞,2006年2月9日)」
と述べている。

 つまり安易な「スクラップ・アンド・ビルド」型建築ではなく、六本木ヒルズ竣工当時のコンセプトである「文化都心」的、またその街が内在する人や事業などに併せてつくられてゆくようなまちづくりの一環であるとされる。六本木ヒルズレジデンスとの共生、お台場にあるヴィーナスフォート等に見られるような高次の文化集積都市、職住近接の「コンパクトシティ」という点では、同じ方針の元につくられたものと言える。同時に今後の上向き経済の時流に乗り、"消費牽引文化"の新たな発信地としても栄えてゆくだろうと思う。

 表参道ヒルズは、同潤会青山アパートの跡地に建てられた。
同潤会青山アパートと言えば、戦前昭和のモダニズム建築として、また集合住宅の代表格として、今まで様々な雑誌――、とりわけ東京人などで多く採り上げられてきた。少し前まではまさに表参道の顔として、初夏ともなれば緑萌える並木の合間からこぼれる木漏れ日を浴びながら眺めやる道の両側のオープンテラスカフェにはかつて訪れたヨーロッパの街並みを見出し、それでいて現実と非現実の間を繋ぐタイムトンネルを抜けてさまよい歩くような抗い難い時の流れの中に身を置くような不思議な感傷に浸れる格好の癒しスポットであった。

 それが今ではもう面影と言えば、表参道ヒルズの建物の高さと、"同潤館"と呼ばれる住居用建物だけに留まっているくらいである。ベンヤミンの言葉を借りて表現すれば、アウラは喪失した。建物の解体前には随分と反対運動もあったらしい。旧丸ビルの取り壊しの際にも同じことがあった。伝統と郷愁の残る建築物を、簡単に破壊せしめることをすんなりと快く思う人は少ないだろう。

 まして、同潤会青山アパートと言えば、東京・横浜合わせて計16ヶ所に建てられたという同潤会による集合住宅の中でも最も人気のあった建物である。11日の開業と同じ日には同潤会記憶アパートメント展 Vol.5という展覧会が開かれている。時間があれば見に行きたいと思う。

 同潤会アパートの歴史は、先に紹介した雑誌『東京人』で今まで幾度となく特集されてきたので今さら詳しく説明する由もないと思うが、旧内務省の外郭団体として設立(1924年)された財団法人同潤会が中心となって、関東大震災(1923年)の罹災者のために設計・建築をおこなった集合住宅の総称で、青山アパートは1927年(昭和2年)に竣工している。当時の高級マンションである。

 在りし日の青山アパートが私たちに対し、70余年の歳月に渡る栄光の歴史を見せていた頃、渋谷駅から一駅、ファッショナブルな若者が多く集まり活気を生む、山の手のお洒落な街。そしてそんなセレブレティ&ハイソサエティな雰囲気に不思議と融和する昭和のモダン建築――、青山アパートの印象をそんな風に表現することができたかもしれない。

 こんなことを思ううち、近年似たような事象がなかったか?とふと思い出してみる。
2000年に竣工した「代官山アドレス」がそれである。

 この地は、かつて、1927年に青山アパートと同時期に建てられた同潤会代官山アパートのあった跡地である(1996年解体)。
 この代官山アパートの取り壊しが決まった際にも、先に挙げた建築物の取り壊し同様、反対運動や保存運動が多く起こった。同潤会代官山アパートの歴史も含め、この辺の経緯については、代官山再開発物語―まちづくりの技と心に詳しい。

 代官山駅前、周囲に開ける遊歩道、公園、そして空を貫くように高くそびえる代官山アドレス ザ・タワー。このマンションは、竣工当時一戸あたりの平均価格は1億1千万円と言われ、いわゆる億ションと呼んだ方がいいだろう。代官山アドレス ザ・タワーの登場は、あの隠れ家的雰囲気を持った代官山の街を、良くも悪くも変貌させた契機となったと思う。ペットの飼育も可能というコンセプトの都心部のマンションということで、セレブな女性が火付け役となり新しいペットブームも呼んだことと思う。

 この代官山アパートや青山アパートだけではなく、1999年には鶯谷アパートが、2002年には清砂通アパートが、2004年には江戸川アパートや大塚女子アパートが次々と解体され、今年2006年には三ノ輪アパートが解体予定だと言われる。代官山アパートの解体を折り返し地点として、東京から同潤会の手掛けた集合住宅建築がどんどんと失われていっている(参考『東京人』より)。

 表参道は普段私用で出かけることは少ないが、職場が渋谷ということもあり、仕事ではよく降りることがある。いつも渋谷とは全く違う雰囲気だなという印象を受ける。さらに南青山の方へ抜けてゆくとまた違った光景に移り替わってゆく。根津美術館もそうだが、周辺には岡本太郎記念館スパイラルホールなどの文化施設、あるいは小さなギャラリーなどが多くあり、インスピレーションを受ける街として文化人が多く住むのも頷ける。

cf.「このアパート以外に同潤会アパートがあることなんて知らない。そういう人が圧倒的に多い。つまり、青山アパートは、同潤会アパートの代名詞だったのである」
/『消えゆく同潤会アパート 同潤会が描いた都市の住まい』より。

 同潤会青山アパートの残した70余年の歴史の節目に生きる私たちが、表参道ヒルズをはじめとした森ビルの進める東京都心部再開発事業の投げかける問いの中に垣間見る未来の生活は、果たして精神的充足を約束し、なおかつ天災や犯罪などから守られる安全で住みやすい地域となり、人々が多く集まる活気のある持続可能なコミュニティとして、今後さらにどのような発展を遂げてゆくのか――、『東京人』(2006年2月号)の中で書かれていた都市計画の最先端「ロンドンプラン」について、「環境か都市か、福祉か公共事業かという二者択一の時代は終わり」、リビングストン現大ロンドン市長の市長選に出たときの公約、「経済成長」、「ソーシャル・インクルージョン(社会的包容力)」、「環境」等のアメニティの追求がどこまで行われるか、同潤会青山アパートの遺した郷愁に代わる未来への期待として十分な存在意義を持つこととなるのか楽しみである。

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2005年02月01日

みなとみらい線開通一周年

 今日で、みなとみらい線が開通一周年だそうである。個人的には、「もう一年経つのか?」と時の流れの速さに驚いている。仕事で横浜周辺に行くとき、横浜駅でJRから東横線に乗り換えるのに、今まで通り階段を上がってしまうということを何度もしてしまっていた。それほどみなとみらい線が開通してからの横浜駅は変わった。

 当初は、桜木町の駅前の雰囲気が好きで、あのランドマークタワーが建設された当時、私は高校生であったが、オープン2日目にはクラスの友人を誘って見に行ったものだった。当時はタピオカなんかを珍しく思い、お土産に買っていったものだった。そんな桜木町駅に東横線は通らなくなった。もちろん、従来通り、京浜東北線や横浜市営地下鉄線は走っているが、それはそれで一抹の淋しさも覚えたものだ。

 しかし、みなとみらい線が通り、横浜駅からみなとみらい21地区の中心地に新設されたみなとみらい駅を経由し、馬車道駅、終点の元町・中華街駅まで線路が伸びたことは、大変画期的なことだとも思った。

 私が以前読んだ本に、『イベント創造の時代 自治体と市民によるアートマネージメント』というものがあった。著者は横浜市の職員で、今まで関わってきた横浜市のプロジェクトについてを本書の中で多く紹介している。本書が発売されたのが2001年なので、それ以前のことまでしか書かれていないが、まるで今の横浜市が、みなとみらい線の開通までをも視野に入れていたかのような、文化と商業の複合を目指し突き進んできたような歴史があることを想像させる。

 外国からの玄関としての港につくられたみなとみらい21地区。そこにはパシフィコ横浜もあれば、横浜ワールドポーターズもある。もちろん、ランドマークタワーや横浜美術館もあるが、みなとみらい駅ができてからは地下出口を出れば目の前だ。また、ロフトスペースを活用した赤れんが倉庫も見事に今風の複合施設として復活を遂げている。少し歩けば馬車道駅や日本大通り駅で、横浜の古い歴史や史跡に巡りあい、元町・中華街で食事もできる。何もない土地に一から鍬入れをして区画整備をし、確固とした都市や産業を築き上げた後、交通網の整備をし、そこへ人の流れを作ってゆく。

 「日本を含め世界十数カ国約百画廊から約3000点の現代美術作品が展示される日本初の国際アートフェア」NICAF、すなわち国際コンテンポラリーアートフェスティバル(International Contemporary Art Festival, Japan)の記念すべき第1回開催は横浜であった。
 そして今年、2005年は4年に一度の現代美術のイベント、「横浜トリエンナーレ2005」の開催が迫っている。

 89年の市政100周年を記念して行われたという「YES'89 横浜博覧会」以降、美術に限らず、古くは本牧ジャズ祭や横濱ジャズプロムナードをはじめとする音楽(JAZZ)、映画、演劇、ダンスと文化的な催しが多い。これも多くの群集を誘致するという目的では的を得たものと言えるかもしれないが、とにかく規模が大きいし、定期的に行い、しかも成功させてゆくには並大抵の企画力では無理である。イベントに携わった方々の思いに胸を打たれる。

 みなとみらい線開通一周年を機に、YOKOHAMAのさらなる飛躍に期待したい。

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2005年01月04日

神田明神へ初詣 ~「困ったときの神頼み」~

 今日は神田明神にまで足を伸ばした。ここ周辺は私にとってはまさに母校がある地域でもあり、神田明神へは学生時代にも一度足を運んだことがある。また、中学受験の頃は近くの湯島天神に赴き、見事成就を果たした縁起の良い土地だとも思っている。それから第一に、ここ周辺を自分の商売のスタート地点としたいと考えていたのだった――。

 神田明神は何と言っても、家庭円満、縁結び、商売繁盛、事業繁栄の神様がおわしますことで有名である。私にとっては今どれも足りないものばかり。ついつい欲張ってしまう優柔不断な私なのだが、ここは一つ「商売繁盛」だけに願掛けをしてお賽銭を入れた。普段信仰などを持たない私ですら、目をつむってお願い事をしている間は真剣そのものである。私を知る人にとってみれば、まだ商売すら始めていないのにと滑稽に思うだろうが、自分の中で「商売」はもう始まったのだと感じている。そのくらいの心構えでいる。定期預金も解約し、僅かながら自由になる金も出来た。

 「商い」を「飽きない」と掛ける人がいる。私は、どうせ商売をするのなら決して「飽きない」ことをしたいと考えている。それはもちろん最低限の意識で、出来ればいつまでも今と同じような新鮮さをもって取り組んでいたいと思っている。

 今日はどこまでも澄んだ晴れ渡る青空が心地よく、参詣者の数も想像以上に多かった。私もその中に混じり、おみくじをひいてみた。

――「吉」。

 こんなに純粋な気持ちでひいたのにと、ちょっと肩すかしであった。自分が考えている程簡単なことじゃないのかな?先にあれほど信仰はないと言っていたのに、実際にこうした結果を引っ張ってくると不安になるものである。「わざわざここまで来て……」と半分投げやりな気持ちで本文に目を通す――。


かきくもり夕だつ浪のあらければ うきたる舟ぞしづ心なき
~夕立の来る前の荒立つ波に木の葉の様にゆれ動く舟。思わざる災を乗切る為には不動の信念が必要。人生航路においても不実心浮気など心の迷いを起さず身を正しく保つ事が肝要。


 ――出典を調べてみるとどうやら紫式部が都から地方に下向する際の不安を歌ったものとある。なるほどちょうど私が、大きな会社ではないが、ある程度安定した生活を約束された権利を放棄して、道のない道を歩み出そうとしている様に似ている。おみくじでさえ、こんな男らしくない逡巡している私の気持ちをお見通しである。決して気楽な道のりではないと戒められた。

 帰りがけ商売繁盛のお札を買い求めた。
その後駅までの道を歩く中、一軒一軒立ち並ぶお店と、街の様子をしっかりと目に焼き付けた。「困ったときの神頼み」かもしれない。しかし今日は、こんな私に対しては随分と真剣なアドバイスをもらったように思う。この場所がいつの日か、自分の活躍する場になっていて欲しいという、まだ瑣末な思いを胸に抱きながら、足取りは再び軽くなった。

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2004年09月28日

中秋の名月 -ルナティックス-

「つまり彼らは、太陽の暗示のない夢を織り出そうとしているのだ。」――ヒュネカァ「月光発狂者」

 上記、引用の引用になってしまうが、稲垣足穂の短編集『一千一秒物語に収められている「天体嗜好症」という章の冒頭にあったエピグラムである。

 今日9月28日は「中秋の名月」であった。旧暦でいう8月15日は通常(新月から数えて)15夜にあたり、今年は今日がそれにあたる。古来より花鳥風月雪月花を愛してきた我が国日本では、中秋の名月の日にはお月見の習慣があるとされる。

 今日は一日中内勤で、月を見たのは家路に着く少し前の、既に夜中の1時を回っていた頃だったので、格別月見などという気分にはならなかったが、今年は偶然にも満月に近い中秋の名月であり、そんなことさえ忘れていた、いつもは下ばかり見ながら帰途に着く私も、薄暗い雲の切れ間に見え隠れしながら蒼白くほのかに照らす今夜の月のあまりの妖艶さに、思わず珍しく天を見上げてしまった。

 たまたま昨日の日記の中で、「小学生の約5割は月が満ち欠けする理由を理解していない」などというニュースの話題を出していたので、何だか妙に月が神秘的に見えた夜だった。

 確かに月をモチーフにした書物や絵画は今までにも多くあった。今日の日記のタイトルには、以前も引き合いに出した松岡正剛氏の名著(『ルナティックス 月を遊学する』)より拝借した。また、加賀谷穣氏のコンピュータ・グラフィックや、シム・シメールのシルクスクリーン作品など、月や天体をモチーフとしたものは世に溢れかえっていると思うので、他にも「月」に特別な感情を抱く人が多いのかとも思う(ヤフーでの検索結果)。

 月は実際に、1969年にアメリカの打ち上げたアポロ11号による人類初の月面着陸のニュースや、私も以前書いたZIGGYの音楽レビューで触れたデヴィッド・ボウイの「SPACE ODDITY(69年)」で歌われたことでも、私が生まれる以前の話と言っても既に身近な話題である。

 「朧月夜」や「荒城の月」などの曲もあるし、先ほどは、月を日本人特有の風情のように書いたが、もちろんそんなことはない。

 有史以前から、月をはじめとして天体に対する信仰・崇拝のようなものもあって、イスラエルのダビデ王の子、ソロモンの元へ謁見に来たという伝説のシバの女王の話が映画化などもされたりと有名だが、この「シバ」という名前だが、確かに伝説上の人物とは言っても、実はこれは人名ではなく国の名前だとも言われていて、古代バビロニアで崇拝された「月の女神シン」に由来するとも言われているそうである。

 しかし何と言っても人類でそうした天文全般に人々の興味がわいたのはルネサンス以降の中世ヨーロッパ、とりわけアタナシウス・キルヒャーやヤコブ・ベーメなどが進めた天文学、あるいは占星術が起点となってはいないだろうか。宇宙や地球、また、そのミクロコスモスとしての人体、あるいは運命論的思想まで、それはどうしてもオカルトじみた話にも発展しやすく、そこから多くの怪奇・幻想趣味の物語も多く登場したが、そこでモチーフとなったものとして月は比較的主役級に近い存在だったと思う。

 このように、いつの時代も人を魅了してやまない月、神秘的な天体は、現代でも謎に満ちている。冒頭で話した「月の満ち欠け」だが、先日の週刊誌にも、月齢(公転周期)と地震の因果関係により、今月28日から来月10日くらいにかけて、阪神や関東大震災級の地震が来るかもしれないといったような記事が出ていたが、実は真実はどうあれ、これ以前からも結構話題になっていたりする話だった。

 太陽や月の引力が潮の満ち引きに影響することは何となくは知っている。月はその大きさや質量、地球からの距離からいって、他の天体との相関と比べても、地球に対する引力は強く働いているとされる。地球の7割を占める海水でさえ、大きな影響を受けるくらいだから、そうしたことからも、確かにちょうど地表の割れ目付近にある日本列島が世界でも有数の地震列島として言われる由縁も分かるような気もする。

 「美しいものには棘がある」

 そんな言葉がよく言われるが、「ルナティックス」――、この「月的なるもの」、あるいは「狂気的なもの」の妖艶さを身にまとった今日の中秋の名月に何とも言い難い神秘的な雰囲気が漂っていたために、思わず心の中では、近く大地震でも起こるのではないか?なんて心配をしてしまった程である(笑)。
 まだまだこの神秘的な地球には、小学生ばかりでなく、大人にも分からないことだらけだと心から思う月のきれいな晩だった……。

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2004年09月05日

【社名の由来】 青山ブックセンター、9月末営業再開のニュース

※旧「楽天広場」時代のブログより転載。

 31日付けの「日刊帝国ニュース」(帝国データバンク刊)を見た。

 以前にも日記で触れた「青山ブックセンター閉店」のニュース(「青山ブックセンター」閉店 ~東京からまた一つ、カルチャーが消える~」と、今月末営業再開のニュースに絡むコラムが掲載されていた。

 青山ブックセンターの営業再開を支援したのは、日本洋書販売(洋販)という会社のようである。多くの人が閉店を残念に思っていた矢先のことで、このニュースを聞いて嬉しく思った人も多いかと思う。

 ところで、先の「日刊帝国ニュース」のコーナー、「これが倒産だ」の中で書かれていた、青山ブックセンターの社名の由来についての話が面白い。

 私はてっきり、"青山(地名)に本店を置くから"だと思っていたが、どうやら違うようである。確かに1号店は六本木店(1980年開業)と言われているが……。

 以下抜粋すると――、

 (前略)幕末の詩僧・釈月性が吉田松陰に贈った「男児立志出郷関、学若無成不復環、埋骨何期墳墓地、人間到処有青山」という漢詩にちなむという。この句の「人間」は「じんかん」と読み人間世界を意味し、「青山」は「せいざん」と読み「墓」を意味する。全体では「男がいったん志を立てて故郷をあとにしたからには、万一、学業がならなくても死んでも帰郷しないという決意を持ち続けるべきだ。先祖と同じ墓地に骨を埋めなくともよい。世の中どこにでも活躍の場はあるし、どこにでも骨を埋める場所はあるものだ」という意味となる。(後略)
 ――そんなこと、初めて知ったが、思わず惚れ直すほどに良い話である。

 以前、社名変更についての日記の中で、社名の命名は大切なことではないかと思ったことを書いた。社名の由来が有名なところは多くあるが、青山ブックセンターの社名の由来ほどに深いエピソードを元に命名された社名は少ないのではないかと思った。

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2004年07月24日

「松岡正剛千夜千冊達成記念ブックパーティー」に参加!

 今朝、朝の6時過ぎに帰った後はシャワーを浴びて即寝。昼過ぎには起きて、午後に備える。

 本日15時からは原宿クエストホールで行われた松岡正剛千夜千冊達成記念ブックパーティー これでだめなら、日本は闇よ。に参加するために足を運んだ。

 松岡正剛氏のこの偉業については、その巨大な知のネットワークに触れたいがために氏の著作を多く読んでいるわけでもないのに恐れ多くも著書の感想文なんかも書いてしまったこともあった。
 面白いことに、好奇心というものは、突っ込めば突っ込むほど高まってくるようで、一度はこの目で松岡正剛氏という人を目の前で見てみたくて仕方がない気になっていたところ、タラナイさんからご案内を頂いたり、千夜千冊アップロード委員会さんへ相談したりしながら実現可能なものへとなってゆき、何とかこのイベントへ行く決心がついた。

 ブックパーティーの始まる15時頃、原宿-表参道間にある原宿クエストホールを訪れると、既に多くの方々が来ており、むしろあれだけ広いホール内に置かれたイスに空きが見当たらない程の混み方であった。夜の10時過ぎまでパーティーは続くのだが、途中の休憩のときにはシャンパンや一口サイズのデザートなどが振舞われ、ホール入口付近も知り合い同士で来られた方や、なかには「千夜千冊」で採り上げられた著作の著者の方なども混じって、ものすごい活況を呈していた。そのときの様子を写真に収めて参りましたのでご興味のある方はご覧ください(写真)。

 いとうせいこう氏の軽やかな司会進行により、7時間という時間は瞬く間に過ぎ去った。その間、松岡氏にメッセージや曲を贈った方々は、先の「千夜千冊」の出版化が求龍堂という出版社で決まったことが発表されたが、その書籍版『千夜千冊』の装幀を務められることとなった福原義春資生堂名誉会長をはじめ、慶応義塾大学教授金子郁容氏、安西祐一郎慶應義塾大学学長、英文学作家高山宏氏、詩人の高橋睦郎氏、ファッションデザイナーのコシノジュンコさん、芸術家森村泰昌氏(ビデオレター)、アートディレクター浅葉克己氏、インテリアデザイナー内田繁氏、サックス奏者坂田明氏、日本オラクル代表取締役社長新託正明氏、舞踏家田中泯氏、またはWEB版「千夜千冊」で既に語られた著作の著者数人など、作家や音楽家、芸術家、教育シーン、ビジネスシーンにおける各界の大御所ばかりであった。

 この日配られたパンフレットの中に書籍版『千夜千冊』の案内が入っていたが、携わる世話人たちの名前がまたすごい。作家の井上ひさし氏、舞台俳優美輪明宏氏や、工作舎、みすず書房、筑摩書房、講談社、集英社、角川書店、中央公論社、早川書房、創元社、岩波書店、新潮社、法政大学出版局、文藝春秋などの出版社社長をはじめ、京都造形芸術大学学長、東京大学大学院教授、河合隼雄文化庁長官、文化人類学者山口昌男氏、宇宙航空研究開発機構理事長といった研究所や教育シーンのトップの方々、その他、写真家や建築家、華道家や能楽師、邦楽家、落語家、陶芸家、美術館館長、または鳩山由紀夫氏をはじめとした衆参議員や文部科学大臣等の政財界のトップ、三菱商事、三菱自動車工業、電通、大日本印刷、凸版印刷、セイコー、松坂屋、メルシャン、三井住友海上火災保険、ビームス、八重洲ブックセンターの会長・社長・顧問などの役員クラスの名前が並んでいた。

 WEB版「千夜千冊」、先日7月7日の『良寛全集』でその偉業を一旦終えたわけだが、今日の講演によれば、これは通過点に過ぎないといったような意見が聞かれた。

 ところで私もかつて、イタロ・カルヴィーノの『マルコ・ポーロの見えない都市』を採り上げたことがあったが、松岡正剛氏がこのイタロ・カルヴィーノを「千夜千冊」で採り上げた今年1月26日に書いた第932夜の冒頭にて、前日に氏が還暦を迎えた話を書いてる。

 この「還暦」という言葉。父が10年ほど前に還暦を迎えたときに母が赤いチャンチャンコをプレゼントしているのを見て「変わった風習だな」と感じたことがあった。父が「次は古希か……」と言ったときに、それらの語源の話になって父の聞きかじりの説明を聞いたとき、一見何の関連性もないその言葉に興味を覚えたことがあった。

 「還暦」とは中国の干支の思想で、人間は満60年で人生を一周(本卦還り)するという考え方があり、赤ちゃんに生まれ変わった気持ちでこれからも元気にという意味合いがあるらしい。「なるほど、それでチャンチャンコか(笑)!」といった軽い感動があった。

 還暦の「還」の字には、「還元」とか「元に還る」とか「一周する」みたいな意味があると思うが、この言葉がまさかその1、2年後の自分が、一層の興味をもって触れることになるとは、そのとき思いもしなかった。そんな話を聞いた1、2年後には、私は大学の卒業を控えて、いやいや卒業論文なんてものを書いていた。が、専攻が日本の平安文学だったのだが、現代文学でもいいよと先生に言われ、ずっと好きだった澁澤龍彦をテーマにすることで、少しはやる気になっていたものだった。

 そのとき書いたものはコチラにアップしているが、その中で澁澤龍彦の死について触れたことがあった。
 実は澁澤龍彦は1987年の8月5日に亡くなられているが、生まれたのは1928年の5月8日ということで、月日をひっくり返せば何となくぐるっと一周したような感じがしなくもないではないかという話を、当時氏を論じていた著名な作家の評の中に見て、こじつけだとは思いながらも、ゲーテの「自分の一生の終わりを、初めと結びつけることのできる人は最も幸福である。」という言葉を引き合いに出しながら、「ウロボロスの蛇」についてや、『ドグラ・マグラ』(小説)、『去年マリエンバートで』(映画)、『ゴドーを待ちながら』(演劇)を引き合いに出して、物語の出だしと終わりが同じシチュエーションという文学構造を面白く感じた話を書いたものだった。自分の知っている中で今風のものに置き換えると何があったろう。「きまぐれ オレンジ☆ロード」の始まりと終わりも、神社の階段で麦藁帽子が飛んでくるシーンで共通だったかと思うが、あれも感動た(笑)。

 つまり、また元のところに戻ってくるという設定が物語を帰結させるようでいて、実は帰結させずにまた再び姿を変えて繰り返してくれるのではないか?といったような期待感をもたせることに成功しているという仮説を立てたのであった。というか感想を持っただけなのだが。

 今月20日の読売新聞(夕刊)に、松岡正剛氏の「千夜千冊」達成に対する評論が書かれていたが、その中で第一夜の中谷宇吉郎の『』で始まり、「淡雪の中にたちたる三千大千世界またその中に沫雪ぞ降る」とある良寛の『良寛全集』で第1000夜の幕を円環構造で閉じたというくだりがあり、これは自分の好きな構造だと思った。

 「千夜千冊」はある種一つの広大な宇宙のようで、ちりばめられた星々がネットワークを形成し、意外な場所や条件で繋がってくることがあるのだが、一般的に見れば壮大な現代版「百科全書」のような集大成(アンソロジー)だと感じます。井上ひさし氏が「平成のダヴィンチです」と評したように、まさに文理・アートに関する古今東西の巨大な情報網を、現代のインターネット社会へ反映させるという試みによって、周囲にも多大なる影響を与えたのかと想像する。

 先に述べたように、もし「千夜千冊」の円環構造が、氏も言うように「成し遂げたという感じがしない」という未来の行動に対する期待感を持ってよいとすれば、それはおそらくネット上から飛び出して出版化される書籍版『千夜千冊』も含め、本日の講演にも話のあった現実上の世界における「図書街」構想がそれに当たるのかもしれないと感じた。

 1944年生まれの松岡正剛氏、今年60歳を迎え、奇しくも「還暦」の年に「千夜千冊」を円環構造で終止符を打つという修辞を行った。これは単なる偶然なのか、それとも氏が20代のときに創刊させた雑誌『objet magazine 遊』や『遊学』に見る「遊び」の一種なのか、次なる新しいプロジェクトである千夜千冊の本棚「燦架(さんか)」や、現実上の「図書街」構想などを視野に入れた上で「平成のダヴィンチ」と評された氏の「ダヴィンチコード」ならぬ「正剛コード」なのか下層読者である私などでは到底計り知れないが、本日の講演でも聞いた、一時期文字が欠損して見えたことがあったとか点滴を受けたとか、とにかく還暦を迎えたことだし、今一度集蔵した知識はそのままに生まれたばかりの赤ちゃんのように健康体になって、一般人では果たせぬ未来の文化への架け橋を渡して、その後の私たちの行くべき道を示してほしいと思った。

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2004年07月17日

「青山ブックセンター」閉店 ~東京からまた一つ、カルチャーが消える~

※旧「楽天広場」時代のブログより転載。

 既に多くのBlogで話題になっているが、本日のヤフーニュースなどでの突然の報告に愕然とした方も多いことだと思う。

 東京の文化発信基地のように、デザイン、建築、洋書系のお洒落な高級雑誌を多く置いていたり、六本木店ではときに明け方5:00過ぎまで営業を行っていたり、青山、広尾、新宿などの高級住宅街に開業していた東京流アカデミズムの顔とも言えるかもしれない青山ブックセンターが閉店を決めたことは、一部の人たちにある種多大なダメージを与えたに違いない。

 この手の、お洒落な書店やカフェが流行ってますねという話は、私もちょうど少し前の日記(「『BRUTUS さあ、ブックハンティングの季節です!』を読みました。 <前編> ~新興書店の発信する新しいコンセプト~」)に書いたばかりだった。

 「旅の本屋:BOOK246」や、「ユトレヒト」、「Village Vanguard」、「Hacknet」etc……、いわゆる「書店」というと、陰気臭いガリ勉の人や、インテリじみた文科系の人が集まるようなイメージを想起するが、そうした先入観を払拭――、どころか吹き飛ばすくらい斬新なコンセプトで、従来の「書店」に対するイメージを180度の転換させられることを余儀なくさせられたものだった。それは一昔前のカフェ飯ブーム、あるいは最近でもブームの続くカフェ系の文化とうまく融合し、一時の純喫茶や文壇バー、ジャズ喫茶のようなものさえ彷彿とさせるような、現代版サロンの形成に一役買っていたような気もする。

 この青山ブックセンター(通称「ABC」)に関しても、昨年の日記(「澁澤龍彦責任編集、『血と薔薇』が復刊(祝)!」)で話題にしたばかりだったので、まさか閉店なんて!と正直驚いた。

 確かに自分自身のことを言えば、本を買うのにわざわざ青山ブックセンターに赴いたのは、かつて1度か2度くらいしかない。最近では渋谷のブックファースト大盛堂書店くらいが関の山で、せいぜい東京や日本橋、新宿や神保町へ足を伸ばした際に、古本街や紀伊国屋書店、三省堂、書泉グランデ、丸善、八重洲ブックセンターなどで用を足す程度で、たまにリブロなどがあると少し時間をかけて周るくらいのものである。

 1度か2度しか訪れたことのない青山ブックセンターだが、その存在感は書店の中では、この東京中でもひときわ光る何かがあり、それが"全店閉店"と聞くと何だかとても淋しい気持ちになるものだ。それはまるで、東京からまた一つ、私たちが極自然的に誇りにしていた大切なカルチャーが失われたかのような錯覚にも陥る。

 このニュースを聞いて、ふと思い出したことがある。
自分の愛読誌に挙げてもいる、東京人という雑誌で、今年3月号くらいに、「東京からなくなったもの 消えた街角、思い出の風景(200号記念)」という特集を組んだ号があった。

 この号では、東京の名建築や映画館、喫茶店、鉄道などをはじめ、書店や古書店など、今までに失われてしまった昭和の息吹を、池内紀氏や出口裕弘氏や高田宏氏、飯沢耕太郎氏、鹿島茂氏、吉本隆明氏、大岡信氏、四方田犬彦氏、林望氏、久世光彦氏、坪内祐三氏、南伸坊氏、川本三郎氏、安西水丸氏、赤瀬川原平氏、高階秀爾氏、藤森照信氏、都築響一氏、隈研吾氏etc……、と昭和の東京の文化を語り出したら止まらない知の巨人たちや建築家たちの寄せた文章が並んでいる。

 進む東京都心部再開発事業のかたわらで、ひっそりと消えゆく東京の顔を描写した秀逸の特集号だったと思う。その中に、銀座のイエナ書店閉店の話もあった――。

 イエナ書店は、銀座にある高級洋書を取り扱う由緒ある書店として名前だけは知ってはいたが、このイエナ書店も青山ブックセンターより時期を早く、数年前に経営悪化のために閉店したものだった。

 かつて芭蕉の唱えた不易流行ではないが、書店も戦略を構えて経営していかなければ明日にもどうなるか分からない世の中になったのかもしれない。

 特にこれといったコンセプトを抱えているように見えない中小の書店に限ってはなおさらのことと思う。なにせ、あの青山ブックセンターでさえ閉店の道を辿ってしまうような世の中なのだから……。

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2004年03月25日

建築家・菊竹清訓氏プロデュースの空間に包まれて。

 今日お伺いしたお客様は、以前より格別に懇意にしていただいていたお客様だ。その方はお医者様なのだが、診療方針に独特なポリシーを掲げて診療にあたっている先生である。

 その独特なポリシーの一つが「環境づくり」である。「現代版"白い巨塔"」が単なる物語で終わらない!なんて医療不信が叫ばれる時勢の中で、「信頼出来る臨床経験や治療技術」「最新鋭の設備の充実」などをいかにアピールできるかで、病院は生き残りを賭けている!といった具合に、昨今のマスコミによるブーム便乗には少々節操のない風潮を感じなくもない。

 一昔前までは確かに、「医院の前に自転車がいっぱい停まっている」とか、「玄関に靴がいっぱい並んでいるのが見える」というのが優良医院(患者からの人気があるという意味)だと言われることもあったようだが、よくよく考えてみると、患者にとってしてみれば医者、もしくは医院の「経験・技術」や「設備」などは、あって当たり前だという認識でおられる方がほとんどなのではないだろうか。

 つまり「医院」という空間には、それに足してなお求められる要素があるのかもしれない。それがつまり医療サービスとしての「接客・応対」であったり、心和ませるような調度品選び、空間演出――一言で言えば「ホスピタリティ」なのである。もちろんそれを推進しているからと言って必ずしも「優良」だと決め付けるのは簡単だが、現に医院でありながらISO9001の取得などを行い、治療面以外での品質向上を謳う医院があるのも事実であり、「病院経営」を高らかに謳い上げ、そうした取得を促す手続き代行業者が急増していることからもうかがえるものである。

 そんな独自の展開をする先生の医院の内装を担当されたのが、かの菊竹清訓氏なのだそうである。
 菊竹清訓氏と言えば、出雲大社庁の舎の設計をはじめ、数え切れない程の肩書きや著書、受賞歴、名誉名声を持たれた日本の誇る大御所建築家である。
 最近の話題としては、開催まであと1年を切った「愛・地球(愛知万博)」の総合プロデューサーとして起用されたことだろう。

 話がそれるが、この手の万博。実は以前にも何度か自分の日記――、「過去の冒険小説には「夢」や「教養」があった。」や、「「科学万博-つくば’85」の思い出」や、「「肉体のシュルレアリスム 舞踏家 土方巽抄展」」、「フィリップ・スタルクとバカラの邂逅」などで書いたように、実際に何度も足を運んだわけではないが好きだったりする。

 愛知万博の主催内容のメインが、時代を反映して「IT」や「インターネット」に絡むもののようだということもあり、今からとても楽しみで、先日名古屋出張に行った際には、待ち遠しくて思わず万博グッズまで買おうとしてしまったくらいである(笑)。

 この「インターネット」や「万博」を合わせて耳にすると思い出すのが、あの「インパク(インターネット博覧会)」である。2001年の幕開けをミレニアムとして謳い、2000年12月31日から1年間の期間限定でインターネット上に仮想のパビリオンを作った政府主催の一大イベント!・・・となる筈だったものである。

 この「インパク」については、当時多額の出資をして、大企業も多くパビリオンとして出展し、荒俣宏氏や糸井重里氏など各界の文化人・知識人をも巻き込んで話題となっていたが、当初公開された構想程にはヒットせず賛否両論を生んだという経緯があり、それについて私が何か意見できるものでもない。良く解釈するならば、「早過ぎた出現」だった可能性もある。それだけに、今度の愛知万博には何か期待したいものもある。

 先に挙げた「「肉体のシュルレアリスム 舞踏家 土方巽抄展」」の中で書いた、「氏(岡本太郎)のような「ベラボー」なイベントプロデューサー」は、おそらく菊竹清訓氏をおいて他に誰もいなかったのだろうと想像した。

 そんな、もちろん実際に目のあたりになんてしたことのない菊竹清訓氏の手がけた空間に包まれていると、なるほど、この空間の演出を依頼した側、依頼された側の意志の疎通というか、共通感覚のようなものも垣間見ることが出来、もしかすると優秀な建築というのは、そうした互いの強いポリシーの結合した結果が成果として実ったものなのではないのかなとも思えた。

 私がその菊竹清訓氏の考えに共鳴したと見られたのか、政財界、大企業の役員などを診るお客様は、待合室に置いた菊竹清訓氏の作品集を私に見せてくれた。

 「菊竹さんはホントにすごいお方ですよ――。」

 そうおっしゃるお客様の声を聞きながら私は、その重たい写真集を不器用にめくるのだった――。

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2003年01月19日

風水都市化で日本を好景気に!大作戦!?

※旧「楽天広場」時代のブログより転載。

 先日お伺いしたお客様曰く、近く上海に進出するとのことであった。言葉の問題はクリアしているので、機会があれば一緒にどうですか?なんておっしゃてくれたものだが、「いえいえ、とんでもない!」と終始穏やかな会話で終わった。

 そこで話題にこそ出さなかったが、実は自分もかつて一度だけ上海に行ったことがあったことを思い出した。ほとんど海外旅行はしたことがないのだが、あれは学生のときだったから、もう6、7年の前のこと。上海も今では随分と変わったこととは思うが、父の仕事の関係で経費で行けるとのことだったので代わりに行ったものだった(笑)。

 タダで行ける代わりに、若者に人気がなく需要も生産も減り続ける一方だったその衰退産業の集まる地元の地域復興に寄与するため、若者へ向けた会報誌へ載せるための業界推薦文(中国視察旅行体験談)を書くことが条件だった。一応参加者20数人は同伴者を除けば皆どこかの経営者で、純粋に楽しい「旅行」ではなく研修に近い形ではあったが、タダで海外に行けることを思えば決して苦痛ではなかった。そのとき会報誌に掲載して戴いた推薦文のうち、私が上海に到着して受けた印象についてを書いた部分を一部抜粋してみることにする――。

研修2日目の朝、これが昨夜バスから見た――12日に行われるという、4年に一度の大運動会を控え、派手にライトアップされていた――上海の街並みかとホテルの展望レストランから市を一望しながら朝食をとりました。その後バスで揚子江の支流だという川に沿った広い道路を通って――あちら岸は台場を想起せしめる特異な形の建物が並ぶ近未来都市、こっち岸は19世紀英国調のレトロな様相を呈する建築物が立ち並ぶ伝統都市といったように、その奇妙で斬新な都市構造は私が勝手に作った言葉でいえば"新旧亜洋折衷"というのがまさしくちょうど言い当てているような不思議な街並みを横目に――移動しますが、最近めざましい発展を続ける上海市ですので道路の方も大幅につくり変えられているらしく、途中で運転手さんが道に迷うというハプニングもありました。予想以上に時間がかかってしまいましたが、見るもの聞くものすべてが目新しい私にとっては、通勤で行き交う異常な数の自転車や、騒音とまで言える自動車のクラクションの音さえも新鮮で、バスに乗っている間、退屈さをまったく覚えませんでした。

 上海初体験だった私にとっては、その都市についての第一印象はそんな感じだった。
今年の元旦、初日の出を見る直前に、渋谷の某店にて上海出身の女の子とも上海談義をしたものだったが(笑)、今、この勢いのない日本をある程度で見限って、上海(や中国進出)に目を付ける企業や人が少なくない。

 上海と言えば、先の推薦文の中にも書いたが、世界的に見ても周囲に引けをとらない建築物群がまず目に入る。これは上海がイギリス植民地時代からスタートした発展の歴史を持つからなのかもしれない。世界的建築家であるイギリス人のノーマン・フォスター氏の作品で世界的に有名な建築物、「香港上海銀行(香港)」は、中国銀行との建築バトル?を行うなどしたらしいが、その辺の話はかつて荒俣宏氏の風水先生で読んだことがあった。

 そう、この「風水」。結構前から日本でも"風水師"だの"陰陽師"だのと、この手のミステリアスな話題がワイドショーでも取り上げられ、関連した内容のムックなども随分売れたようで、一般の人にも浸透してきた感がある。
 私は格別占いとか風水とか、それほど興味を持って調べたわけでもないし、もともと信じない!とかかたくなに言っていたほどの人間なので、あまりその辺のことはよく分からない。ただ、学生時代に友人と山陰方面へ旅行したとき、「山陰海岸国立公園・周遊指定地玄武洞」というところに立ち寄ったことがあり、そのときの日記に――、

~いくつかある洞穴の中で「青龍洞」というのがあって、それは、たくさん突き出た奇岩だけで構成されている洞穴だった。突き出た奇岩の一つをよく観察してみると、驚くべきことにそれは正確な多角形をなしていたのである。自然の神秘というか、洞穴の名前にも風水学的なものがあるし、これが神聖幾何学というものなのだろうか、とこのとき感じたものであった。(後略)

――などと書いたので、少しは興味を示しそうなタイプだったのかもしれない(笑)。

 "風水"は、中国などアジア諸国を中心として隆盛を極め、最もその取り組みに対して遅れているアジア諸国のうちの一つは、実は我国日本なのではないか?と思えるくらい、周囲の国々では都市の発展、ビルの建築時などにも気を遣っているものらしい。日照権とか地域の美観保護の関係でマンションを取り壊すとかどうかとかいう問題は、都市計画法で言うところの用途地域のバリエーションの少なさから見てみても、国土の狭さと心の狭さが比例して止まない日本だけの特徴なのかもしれない。今さら何を?と言う人もいるかもしれないが、案外この"風水"、日本を好景気にする要素の一つになるのかもしれないなどと思った。

※関連参考リンク
建設博物誌 >> 超高層 >> 世界の超高層(鹿島建設株式会社)

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2002年12月23日

いざ、箱根小旅行へ!

※旧「楽天広場」時代のブログより転載。

 ――なんてそんな大それたものではありませんが、疲れない程度に自然を見たくなり、友人(と先日知り合ったキャバ嬢さま)を連れたって箱根に出掛けた。

 グリム兄弟などとも親交のあり、ヨーロッパを旅しながら多くの童話や旅行記を残した童話文学の父、アンデルセンの言葉に、「旅は私にとって精神の若返りの泉だ」というようなものがありましたが、近場の旅行でもそれなりの旅情が味わえるものだと思った。

 湯元での酒宴で一夜を過ごした翌朝23日には、チェックアウト後すぐに、箱根登山鉄道へ。売り文句の「スイッチバック」に乗車前からドキドキな気分。乗車中、なぜか普段は絶対聞くことのない「箱根八里」が耳の奥で鳴り続ける錯覚に陥った俗人な私だったが、正直言って小学校の頃に行ったときに感じた程のドキドキ感が既になくなっているように感じた箱根にあって、唯一ささやかな旅情を感じたものであった。

 午前中を「箱根彫刻の森美術館」で過ごし、午後からは「箱根小涌園 ユネッサン」に行った。日帰りだとこのコース+αが精一杯かと。高級旅館を除いても他にも見所はいっぱいあると思うが、次回にお預けか――。
 この時期、天気はあまり良くなかったが、空いていたのでゆっくり出来たとは思う。

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2002年11月03日

街角考現学・第4部 「都市部のカフェ戦争」

 何を隠そう、私の大好物はチョコレートの他にコーヒーもそうなのであった。もう中毒かというくらい昔から常飲している。と言っても毎日たくさん飲んでいるというだけで、豆や入れ方に凝ったり、果ては歴史を追いかけるような好事家でもない。今もこれを書きながら飲んでいるわけだが……。

 私は自分でもよく分からないのですが、中学1年の頃から何故かブラックコーヒーを愛飲している。それ以前は紅茶が好きだったのだが、あまりに量を飲むので途中から親に砂糖抜きで飲まされていたことがあり、ブラックコーヒーを飲むのはそれが元となった嗜好なのかもしれない。
 家にはかつて購入したコーヒーメーカー(1、2万円程度)があるが、これほど元を取ったという買い物はないと自負する程、一度の故障もなくかれこれ2、3年というもの、ほぼ毎日のように駆使されている。

 閑話休題。だいぶ以前からニュースになっている話題だが、昨今、都市部におけるコーヒーショップの出店競争が激しくなってきているようである。ひどいところ――私が知る限りでも渋谷や銀座などは競合同士が隣り合っている、もしくは向かい合っているケースも多く見られる。

 その銀座にあのスターバックス1号店がオープンした頃(96年)からか「カフェ」という言葉や文化のようなものが、7,80年代のそれよりも何かもっと付加的なものを伴って肥大化したかのような流行の兆しが現れ始めたように感じる。

 私が中学生の頃、友人を連れたって初めてドトールに行ったときは、あんなにおいしいコーヒーが150円で飲めるなんて!とびっくりしたものだった。大学の卒業旅行時(98年)もロサンゼルス・メルローズ通りのスターバックスでカフェ気分を満喫したかったがためにわざわざ立ち寄ったものだったし、就職活動時には移動の合間ちょっとでも時間が空けばどこかしらコーヒーショップに入っていたから、気が付けばコーヒー貧乏になっていたということも。

 コーヒーチェーンの出店ラッシュが激化している昨今。しかもこれだけ店舗が増えているのに、いつも入ろうとすると満席に近い状態で、とにかくそれだけコーヒー、もしくはカフェで過ごすゆとりのようなものが好きだという人が増えた証拠なのかもしれない。


【コーヒーチェーンのリンク】
※私の学生時代は、ルノアールやバン、トップ、マイアミといった喫茶店をよく利用していたものだった。

・スターバックス
http://www.starbucks.co.jp/
・ドトール
http://www.doutor.co.jp/
・エクセルシオールカフェ
http://www.doutor.co.jp/service/exc/exc_bs.htm
・プロント
http://www.pronto.co.jp/
・シャノアール
http://www.chatnoir-jp.com/
・カフェ・ベローチェ
http://www.chatnoir-jp.com/veloce/veloce.html
・カフェ・ド・クリエ
http://www.pokkacreate.co.jp/crie/
・タリーズコーヒー
http://www.tullys.co.jp/
・サンマルクカフェ
http://www.saint-marc.co.jp/cafe/i.html
・セガフレード・ザネッティ
http://www.segafredo.jp/
・シアトルズベストコーヒー
http://www.seabest.co.jp/

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2002年08月25日

麻布十番納涼祭りのエピソードエトセトラ

■麻布十番商店街ホームページ
http://www.azabujuban.or.jp/

 8月23日(金)から25日(日)まで、毎年恒例のお祭りがあった。私は行ってはいないのだが、今日が最終日である。たまたま通ったという姉が、豆源の豆菓子を買ってきていた。これはよく、仕事で外出中に麻布に行くと、社内へのおやつのお土産としてときどき買っていっていたりもしたものだ。
 期間中、上司がその辺に用事があり、行ったらすごい混みようだったと業連電話で言うので、ゆっくり焼鳥なりモツ煮込みなりタイ焼きでも堪能してから帰社してはいかがでしょう?と提案した。

 私が行ったのはいつだったろう?学生の頃は、よくお祭りとか縁日の雰囲気が好きで、商店街の小さなお祭りをはじめ、靖国神社のみたま祭りとか、浅草の三社祭とかに足を運んだものだった。

 提灯の薄暗い明かりが夜の闇に溶け込む様子、小さな子供たちのざわめき、金魚すくいなどの露店から聞こえる発電機のモータ音や水臭いにおい、極普通の人が感じるのとおそらく同様の「異世界感」が私も好きであった。

 私が以前、麻布十番祭りに行ったのは確か社会人1年目の夏だから、もうかれこれ4年経つ。
当時は派遣スタッフとして某企業で働いていて、仲間の派遣スタッフを誘って行ったものだった。学生時代の女友達を誘ってみたところ、彼女はレースクィーンの仕事をしているということで驚いたことがあった。事務所の友人も連れて来てもらい、4人でお祭りに行った。

 現在の麻布は、隣町六本木6丁目などとともに、あの森ビル再開発計画の一環として、六本木ヒルズや元麻布ヒルズの建設が進んでいるところである。昔から「芸能人を見かける」「ドラマの舞台になった」とか、何かと高級住宅&オフィス街のイメージが強いこの近辺。一方で平安時代、空海が関東一円に真言宗を伝えるために今の麻布に開祖し、その流れを受けて今の善福寺が建立されたようで、古いものと新しいものが混在する街というイメージがある。それでいて同時に大使館や公園なども近くに点在し、閑静な住宅街というイメージもあります。

 麻布商店街のお店の店長さんと当時話したことだが(これは本当の話かどうか分からないですが)――、

 今の大江戸線が開通するまで、麻布十番というと私の場合、日比谷線六本木駅から歩いて行くことが多かった。したがって、余程用事があるとか目的がないとなかなか行くというようなことはなかった。

店員さん曰く、本来日比谷線は六本木ではなく、「麻布十番」を通るべきだったという。地形的に見ても、六本木だとわざわざ周って行くような経路となるそうである。ここに政治的背景があったかどうかは分からないが、とにかく今になって念願の線路が通って商店街が盛り上がって良かったと思う。しかし代官山などでも言えることだが、昔から住む住民たちにとっては、全く違う感性を持った他者(マンションなどに入る有産階級の人、観光や遊びに来る人)が、どんどん土足で入ってくるような感覚がある人も中にはきっといることだろうと想像した。だからタバコの投げ捨てなんかで、きれいな麻布の街並みが汚されないことを心より願いたいと思った。

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2002年08月09日

「丸ビル」逍遥 ~新生丸の内ビルディングに胸ときめいて~

 かつて、中原中也や西条八十&中山晋平も詩った、ランドマークの先駆けとも言える「丸ビル」が、来月6日に新装開業するという話が今朝の新聞にあった。これも様々な情報誌で取り上げられている東京地区再開発プロジェクトの一環事業の一つなのであろうか?


■三菱地所
http://www.marubiru.jp/pre/
http://www.mec.co.jp/report/marubiru/maru_top.html

 ここ丸の内界隈は、今でも「三菱村」などと呼ばれるが、歴史上名高い岩崎弥太郎で知られる三菱財閥の後継者が切り開いた土地である。ちょうど渋谷が、東急と西武の戦いで発展していったように、他の区域との差別化を図りながら摩擦を起こして「近代」への発展を遂げていったホワイトカラーの象徴として、バブルの時期は学生たちの多くが就職先に望み、またトレンディードラマの舞台にもなるほどエリート色の強いモダンな街としての印象が強かった。もちろん調べていくと、もっとすごく歴史と内容のある街のようである。

 学生時代私は、特に丸の内に憧れていたというわけではないのだが、偶然、東京駅のそばの会社でアルバイトをすることになったことがあった。昼時や終業後はときに丸ビルにあった森永の喫茶店でお茶をすることもあった。

 そういうこともあり、特に建築を専攻していたことはないのにも関わらず、「唱歌・童謡学」というゼミに入っていた関係で、中原中也と立原道造の比較論文を作品鑑賞とフィールドワークとを絡めて書いたことがあって、その際にも丸ビルを眺めに行ったことがあったので、何となくの思い出に残っていたということでこれを書いているだけである。

 平成9年、そんな丸ビルも老朽化は否めず、再開発の計画に入っていたようで、皆に惜しまれつつも取り壊しが決まった。当時、取り壊し反対派の人々によって、丸ビルを手を繋いで取り囲んだというニュースがまだ記憶に新しい。もしかするとその頃既に国や企業の方針で、今の東京再開発の大プロジェクトが密かに進行していたのかもしれない。私は当時そんなことは全く知らなかった。

 オープン後はありきたりなテナント展開だけでなく、ITベンチャーや学識者の他、異業種交流を進めるスペースが確保され、グルメやファッションなどのエンタテインメント性も取り入れられることになるという。

 もし台場や晴海のようではなく、本当に期待通りの街に大変身するようだったら、是非一度、刺激を求めて訪れてみたいと思った。

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2002年06月25日

上野動物園は開園120周年!

 自宅からは出るのに少し時間がかかるのだが、本日も訪れた上野は昔からとても好きな街だ。
山の手の閑静さと下町の活気さの出会う街、東北地方からの乗り入れがある終着駅(ターミナル)でもあり、かつての詩人が上京の時の思いを詩篇に綴った街――。

 最近では隣の御徒町駅に大江戸線も通り(「新御徒町」駅=JRとは少し離れている)、特に乗降客も増えたと思う。JR上野駅前は、「変動は機会をつくる」という信念を持って「須田町食堂」をオープンさせ、当時の薄給のサラリーマンから支持を受けた聚楽チェーン創始者の加藤清二郎の偉業を損ねることなく、都市景観もぐっと近代的様相を帯びたような感じのデッキタイプの横断路が築かれている。さらに高架下にはatreのテナントがオープンカフェテラス方式で出店していて、グローバルな客層を迎え撃つ準備も出来たといったところだろうか。

 ここ上野の駅前にある上野恩賜公園には、ル・コルビュジェが建てた日本で唯一の建造物である由緒ある国立西洋美術館の他、存在価値や収集品も含め、日本のトップクラスに位置づけされる美術館やその他の建築物がいくつか建っている。タイトルにある上野動物園も敷地の中にある。未だによく晴れた土日ともなれば、時に大行列で入園を待つ親子連れで賑わうことがある。上野動物園はご周知のように、あの涙なしではとても読めない名作絵本、『かわいそうなぞう』の舞台でもある。

 私は今日の代休を利用して、前に回りきれなかった方の美術展、すなわち東京都美術館で開催中の「マルク・シャガール展」を見に行ったわけだが、終始小雨の降り続く感傷的な一日であった。個人的につけていた日記を読み返すと、前に同館の「版画家池田満寿夫の世界展」や、国立西洋美術館の「プラド美術館展」に行った際も雨だった。もちろん春夏秋冬晴天雨天を問わず、上野を歩いたことはある。いずれにしても共通して言えることは、あの独特な心象風景であろう。ただし都市に住む者が大概抱いている、あの癒しを求める感覚とは少し異なることだけは言っておこう。

 サクラ、イチョウ、ケヤキetc……、意図的とも思える装飾、あのおよそ人間の考えられ得る自然界のジオラマ――、あるいは四季を通じて常に景観を楽しめる公園内の道路の造り。溢れ出るα波の恵みと、小鳥たちのさえずりによって、死んだような目で電車に乗り降りする者たちを優しく包み込む。雨で煙って油絵のように滲んだ街路樹、湿った落葉と土を濡らすかすかな雨音、わき立つような豊潤な土の匂い……、ひとたび敷地に踏み入れば、途端に胸を締め付けられるような感覚に襲われる言われ様のない哀愁と既視感とで病み付きになる……。
 私はこのような感覚を享受出来ていることが、他の人以上にこの公園を楽しめているようで、いつも何か得をした気分で歩いていると思う。
 それと、ここを訪れるカップルは客観的に見ると不思議と絵画の中の主人公のように、詩篇の中で語られる二人のように映るように感じられる。それほど、この公園の持つ力はすごいと思う。

 上野恩賜公園の近くにお住まいの方、普段よく行かれる方も、再度違った感覚で敷地内を歩いてみて下さい。また、まだ行かれたことのない方も、一度はゆっくり時間をとって歩いてみることをお勧めします。

cf.愛読誌の一つ「芸術新潮」 ~特集:気になるガウディー(生誕150年)~
http://www.webshincho.com/geishin/top.html

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