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「アンデルセン生誕200年展」 ~みにくいあひるの子がやがて白鳥になり、私らを癒しむるに至るまで~

「さあ、わたしの話すことを、絵におかきなさい」と、月は、はじめてたずねてきた晩に、言いました。「そうすれば、きっと、とてもきれいな絵本ができますよ」

/『絵のない絵本』(アンデルセン)

 今日は印刷博物館で開催中のアンデルセン生誕200年展を観に行ってきた(チケットはコチラ)。
 昨年2005年は、アンデルセンの生誕200周年ということで、事務局運営の記念展が巡回しており、2月に印刷博物館で開催される運びとなったようである。

cf.「展覧会のご案内」(アンデルセン生誕200年アジア事務局ウェブサイト

 上記エピグラムに引用したアンデルセンの代表作の一つ『絵のない絵本』の冒頭文では、月にインスピレーションを受けて、創作意欲にわいたアンデルセンの思いが描かれている。月にこうした神秘な思いを寄せたり、象徴的に扱った作品は多い。

cf.中秋の名月 -ルナティックス (※『ルナティックス - 月を遊学する(松岡正剛著)』)

 アンデルセンはデンマークの国民的作家、『マッチ売りの少女』『人魚姫』『みにくいあひるの子』などの作品で知られる創作童話作家として日本でも人気の作家である。私はアンデルセンというよりも、童話や児童文学に興味があり、これまでにも幾度かブログの中で採り上げてきた。

cf.
『ハーメルンの笛吹き男』に見る誘拐犯の心理と社会の病理
「未知の世界へ 児童文学にえがかれた冒険」展 ~過去の冒険小説には「夢」や「教養」があった。
「追悼もまた文学なり」/嵐山 光三郎 ――「ことば」を残す作家たち

上記にも見られるように、故矢川澄子女史や、澁澤龍彦(cf.変身のロマン、「野の白鳥」)といった好きな作家の影響であるかもしれないし、在りし日の講談社雄弁会(野間清治)、鈴木三重吉岩波茂雄、『暮らしの手帖』の花森安治などが唱えた教養小説志向の影響かもしれない。

しかしそれ以上に興味を持つきっかけとなったのは、大学時代のゼミの影響かもしれない。当時私は、「童謡・唱歌学」という内容のゼミを取っていた。文字通り日本童謡集や、日本唱歌集などを教科書に、古き良き昭和の世相と今の社会とを比較するという社会学的なアプローチを試みた授業内容であった。

澁澤龍彦の狐のだんぶくろ―わたしの少年時代を引き合いに出し、私も少年時代を回顧したものである。
何度かの授業の中で、上記澁澤の著作の中で語られていた北原白秋の『チューリップ兵隊』という唄を調べることにした。近所の図書館でアルス版全集を借りてきて、北原白秋の歌詞と中山晋平の旋律についてを調べた。それに並行して『コドモノクニ』版に挿絵を寄せた武井武雄、『狐のだんぶくろ』のカバー絵にも作品があしらわれた岡本帰一、影絵に郷愁を感じざるを得ない藤城清治、また生涯にわたりアンデルセンを愛したいわさきちひろ、白秋を学ぶ上で外せない、作風の対照的な叙情性の高い作風であった西条八十、その門下生であったサトウハチロー(cf.当時参考とした文献に、『サトウハチローものがたり』、『ぼくは浅草の不良少年―実録サトウ・ハチロー伝』、『うたうヒポポタマス―サトウハチローの詩と人生』などがある)、果ては中学・高校時代に読み耽ったハイネやヴェルレーヌの詩集、ネルヴァルの『シルヴィ』などに挿絵を寄せていた、ラクリエール版画工房が輩出した画家――すなわち、ジャン・フレローやピエール・ラプラードの作品群などについても調べたものだが、これらの探究行為の中にアンデルセン童話に興味を持つきっかけとなった遠因も含まれるだろう。

 それから、その後になって感銘を受けることとなる「象徴主義(サンボリスム)」――、

《サンボリスト》たちは、彼らの主要な合言葉のなかに次のようなステファヌ・マラルメの提言を数えている、

――「この世のいっさいは書物となるために存在する」。

/『象徴主義―マラルメからシュールレアリスムまで』(窪田般彌)

――故窪田般彌訳の『死都ブリュージュ(ローデンバック)』や『生きている過去(アンリ・ド・レニエ)』等の作品の中に垣間見るヨーロッパの薄暗い曇った空に映える中世の建物の醸し出すアウラなどについて触れながら、自分なりの児童作品に対する郷愁を書いたことがあった。

cf.
文化の日、「フィレンツェ ――芸術都市の誕生展」観覧 ~「アベラシオン」方法序説~
【オススメ雑誌評】 『coyote(コヨーテ)』
※上記の中でもアンデルセンに触れた。

余談ではあるが、後日大学の卒業旅行でイタリア4都市(ローマ、フィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィア)を訪れた際に、そうした郷愁をヘンリー・ジェイムズの『鳩の翼』をテーマに、ヴェネツィアの夜の美を詩にしたことがあったものだが、薄暗い雲に覆われた空、あるいは日本でも、日の長い季節の夕方が醸し出す雰囲気には強い郷愁の念を抱かずにはいられない。

先の北原白秋について書いた論文の中で、私は以下のようにその憂愁の時間帯を表現した――。

 アルス版全集に掲載された『チューリップ兵隊』の歌詞の中で私は特に第五連が好きだ。すなわちそれは「そして夢見るゆふがたは、もやにとんろり、やさしいな」であるが、これこそまさに白秋の心象風景であり、私がもっとも郷愁の念によって心傷める部分なのである。そして「チューリップ」の咲く季節、つまりは日の長くなり始める、あの春の明るい夕方のゆっくりとした時間の流れが醸し出す、深く立ち込めた郷愁の靄に囚われるのである。春ないしは夏の夕方のもつロマネスクな詩情(cf.『夏の雨(マルグリット・デュラス)』)は、私も幼少時代強く感じたことがあった。幼い子供が夕方のフィルターを通して見る光景は、昼間のそれとはうって変わり、いかにも楽しかった一日の終わりを予期させる憂いを含みながら、それでいて明日への希望も抱かせる「やさしい」灯のともる家庭への帰還までをも連想させる。  似たような時間帯による固定観念というか思い入れは誰にでもあるものだと思う。江戸川乱歩や海野十三が深夜徘徊を好み、深夜の散歩中における東京が、昼間の東京とは一線を画した異端の都市として錯覚するのもそうである。また、そういった感性が『屋根裏の散歩者』や『深夜の市長』を生んだのも事実である。

 ――随分と本展とは関係のない、個人的な回想話を長く書いてしまったが、私の童話に対する思いには上記のようなことが複雑に絡み合った結果、好きになるに至ったという背景があって、どうしてもこれだけは書いておきたかった。ある種のナルシシズムなのかもしれないが、人はこうした過去の思い出に支えられて生きているというケースも少なくない筈である。

展示の後半には、現代になって繰り返し翻訳されてきたアンデルセンの童話絵本が手にとって見れるようになっている。私が訪れた時間には人がほとんどいなかったが、一人の少女が食い入るように絵本をめくっていたのが印象的だった。時代を経ても子供に愛される絵本。残酷なイメージのあるグリムシャルル・ペローの童話も情操教育上必要なものなのかもしれないが、個人的には研究者向けなら別として、子供向けの童話に奇を衒う必要はないと思う。コクトーも称賛したボーモン夫人の美女と野獣、ワーグナーのオペラ『ローエングリン』、結論がハッピーエンドだろうとそうでなかろうと、ストーリーには心の美しさを啓蒙し、高次の次元へと昇華してゆくようなメタモルフォシスを含んだ教養小説的構成があるのが望ましい。

最後になるが、本展はあくまでも「印刷博物館」で催された展示であることもあり、ヨーロッパでまたたく間に広まっていったアンデルセン童話に用いられた装丁や挿絵の印刷技術の変遷史についても言及する部分があり、印刷・出版文化に興味のある方にとっても楽しめる企画・構成となっていたことを付記しておくことにする。

カテゴリー:美術展

投稿者 cyberpoet : 2006年03月12日 23:44

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