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2006年03月26日

文化人類学者、米山俊直氏が死去 ~人間社会に対する人々の興味を広げた功績~

米山俊直氏が死去 日本に文化人類学広める

先ほどのエントリーでホワイトバンドの件でアフリカの話に触れて思い出したニュースである。氏の著作は一冊だけ所有していた。

cf.文化人類学を学ぶ人のために

上記の著作である。学生時代に一般過程で教育学を受講した際、「21世紀に求められる教育」をテーマに発表するという内容があった。私はその頃ゲーテの「知るに値せぬものや、知り得ぬものに携わることによって、学問は非常に阻止される」という言葉に傾倒していて、知の狩猟目的というか、つまらない授業を勝手に楽しむために、また現行の教育制度へ対する辛辣な風刺を込めて、「大学教育」という蓑にくるまりながら、めちゃくちゃペダンチズムに満ちたスノッブなレジュメを作ってやろう!と一人燃えたことがあった(笑)。

内村鑑三の後世への最大遺物(cf.「金も名誉もない人間は後世に何をのこせるか?と問うて、"勇ましい高尚な生涯を遺せるではないか"と教えた」)や、フィリップ・アリエスの「教育」の誕生に始まり、山本五十六やファシズムの思想、「君が代」問題、カジュアルデーの適用(学校五日制、ゆとり教育)、いじめ問題やヴァルネラビリティについて、あるいはI・M・ペイ氏(香港にある中国銀行ビルや、ルーブル美術館横のピラミッド型建造物の建築デザイナー)の作品解説から中国に伝わる風水学について(cf.風水先生―地相占術の驚異)、果ては、後年になってから知ることになる言葉でいうと「ファシリティ・マネジメント」という言葉に近いかもしれないが、千葉にある幕張総合高校の校舎や、当時施工が済んだばかりだった大分のコンベンションセンター「B-CON PLAZA」(磯崎新氏設計)などを引き合いに、近未来型のコンピュータルーム、多目的ホールや円形劇場や地下施設の利用等ユートピア小説の影響も色濃く、パウル・シェーアバルト(cf.永久機関 附・ガラス建築―シェーアバルトの世界)やブルーノ・タウトのガラス建築(cf.「グラスハウス」)に移り、エンデとベックマンの仕事(cf.明治のお雇い建築家 エンデ&ベックマン)まで、その他今後一生読むことがないだろうと思われる教育学の専門誌等を参考文献として、生涯教育女子大生亡国論(cf.『若者論を読む』)、ルソーや雷鳥、サルトルの思想、価値相対主義、千葉大の先進科学課程、学生が教師を評価するという「生徒指導・生活指導に関する学校評価項目」、学級新聞の発行、参加型授業、ディベートの方法、ロビン・ウィリアムスのいまを生きるetc……、結論としては旧文部省・中央教育審議会の進めてきた「内容知」(cf.「方法知」)中心の授業カリキュラムが、子供たちの「未知への欲求」を減退させ、「生きる力」を失いやすい子供たちを生んできたのでは?という結論というか、揶揄を書いただけの風刺で終わったクソ論文であった(笑)。たまたま大学の教授にしては珍しく、熱っぽく授業をして下さった若い先生だったので、期待に応えようと私も熱く書いたものであった(上記『いまを生きる』の影響が強かったw)。

その後、ブログを書くようになってからも、そうした傾向は続いたものである。

『闇をひらく光』 ~照明について、ふと考えた~
闇をひらく光―19世紀における照明の歴史(ヴォルフガング・シヴェルブシュ)や、「縮み」志向の日本人(李 御寧)について触れた。
新札発行の『夜明け前』(島崎藤村) ~真実はすべて闇の中~
武士道(新渡戸稲造)、菊と刀―日本文化の型(ルース・ベネディクト)、日本人とユダヤ人(イザヤ・ベンダサン)とヴェニスの商人(シェイクスピア)等について触れた。
『菊池君の本屋 ヴィレッジバンガード物語』(永江朗著) ~こだわりの編集方針「定番をEDITする」(前編)
※レヴィ・ストロースの著作(cf.悲しき熱帯)、あるいは後年になって、マルクスの階級闘争の周辺について(cf.フランスにおける階級闘争)や、ホイジンガ(cf.『中世の秋)、コメニウス(cf.世界図絵)の作品に対して抱くこととなる興味の源泉について触れた。

いずれにしても、そのような多感期の時期に触れた氏の著作(編著)には、直接的な影響を受けたという程のものではないが、少なからず多方面における興味をもたらしたと言うべきであろう。

冒頭に挙げた文化人類学を学ぶ人のために中にあるフィリップ・アリエスの子供の誕生とピーテル・ブリューゲルの作品比較については、自分のブックレビューのサイト内でも、評の内容をパクってしまった格好である(汗)。また、併記されていたユゴーのレ・ミゼラブル(ユーグ版)については、後年になって鹿島茂氏の「レ・ミゼラブル」百六景―木版挿絵で読む名作の背景などへの興味へと派生していったものである。

「文化人類学」は、「自然人類学」に対する言葉である。平たく言えば、人類学へ対する文系的アプローチを試みる学問である。それは民族性や風俗・習慣、儀礼、信仰・宗教、言語学や社会学、都市論etc…、およそ広大無辺な博物学的遊覧をも展望させる学問である。
私は別に専門家ではないということもあるが、小難しい話は抜きにして、人や世界への興味を引き出してくれるような本が好きである。そうした観点でいくと、米山俊直氏の遺した功績は偉大である。追悼。

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2006年03月25日

「ホワイトバンドはアフリカを救ったか」(Newsweek)を読んで

※同じ記事をmixiの方でも書いてしまっているが、次のエントリーに関係する内容が含まれているためログを残しておきます。

最新号のNewsweekの特集は「ホワイトバンドはアフリカを救ったか」であった。

このホワイトバンドについては、以前に自分のブログでも話題に出したことがあった。

「ほっとけない 世界のまずしさの"ホワイトバンド"」は、なぜ怪しまれるのか?

否定派の出典元を多く紹介したからか、マイナスのイメージで捉えているように思われたかもしれないが、個人的には、ホワイトバンドは(ああいうオシャレちっくなアクセは身に付けるタイプの人間ではないので、)結局買わず終いに終わっているくらいで、実はほとんど興味を持たなかったので詳しいことは知らない(汗)。

ただ、当時話題に上がったサニーサイドアップ社側の見解に倣い、アフリカなど普段あまり気にすることのない世界情勢にも少しは興味を持つようになったきっかけにはなったかもしれない。

cf.
Yahoo!Japan 海外トピックス
外務省 G7 / G8 -特にアフリカにおける飢餓に対する行動-
クーリエ・ジャポン バックナンバー
ロイター > ワールド

Newsweekの中ほどには、当のサニーサイドアップの次原社長の言葉が掲載されている。
多くの意見が広報活動(テレビCM等)に芸能人やセレブを起用したことに批判の矢が向いている(賛成派もいるが)。個人的に言えば公共広告機構のCMなんて昔から好きである。「ホワイトバンドの収益は当社の売り上げにはなりません」「出演者はもちろん全員ノーギャラです」と次原社長は言う。

私がブログで採り上げた当時も、販売価格300円の内訳のうち、直接支援には1円も使われていないという事実を槍玉に上げた人が多かったが、実行委員会もサニーサイドアップ側も売り上げの一部が寄付される仕組みでない旨(cf.「アドボカシー」)を元々謳っている。

でも、記事を読み進める内に、論点がそこに集中するのは筋違いかとも思えてきた。論点はそんな部分ではない。先進国を名乗るのなら、民度の低さが露呈するような議論はお互い避けたいものである。

「直接支援にならない不毛な論議」を交わしている間にも、アフリカでは3秒に1人、貧困のために命を落とす子供がいて、その数は減ることがない。また、こうしている間にも国を代表するような人が、私利私欲のために国のお金を使い込んでいるかもしれないのである。

正直自分も、アフリカの現状を知らないで言っている。また、目の前の問題もあるかとは思うが、アフリカの貧困問題にだけ視点を移しても解決しない部分も多い。"アフリカ"と一口に言っても当たり前だが大陸の名前だし、一つの国を指しているわけではない。サハラ以北と以南では政治・経済や文化も全く違う。自給社会をつくり上げるまでは本誌でも書かれているように、「絶えず支援を必要とする、無力で希望のない大陸というアフリカのイメージを定着させただけ。アフリカ人の自助努力を見くびり、自信を低下させた」だけで、このまま政治的に変わらないようでは無政府主義も台頭し、テロや内紛は絶えないことだろう。

未知のアフリカには世界遺産や遺跡が多くある。何よりも真の大自然がある。ピカソやアポリネール、レーモン・ルーセル、ジャコメッティやブランクーシの表現したアフリカ――、大変魅力的な国々が多い。自分もいつかこの目でそれを見てみたいなとも思った。

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2006年03月22日

「タカラトミー展」 ― 夢の玩具考 ―

オーギュスト・コントの発見した人間精神の三段階の法則は、玩具の発達の歴史をながめた場合にも、ほぼ、ぴったり当てはまるように思われる。すなわち、最初は「神学的状態」であり、次は「形而上学的状態」であり、最後は「科学的状態」である。

幻想の画廊から』(「玩具考 古き魔術の理想」より)/澁澤龍彦

2006年3月1日、日本の玩具メーカー大手、タカラとトミーが合併して、新会社タカラトミーができた。それを受け、先日まで渋谷パルコミュージアムでは、「タカラトミー展」を開催しており、私は最終日の21日に訪れた。

タカラと言えば、ライブドア堀江元社長が製作に関係したといわれる「人生ゲームM&A」(cf. Yahoo!辞書)が生産・販売中止になったというニュースが記憶に新しい。そのシリーズもののボードゲームの代表作である「人生ゲーム」、他にも「ダッコちゃん人形 」にはじまり、「リカちゃん」、「チョロQ」、「ベイブレード」、一方トミーの方は、「モノポリー」、「黒ひげ危機一発」、「ゾイド」、「トミカ」、「プラレール」、「Nゲージ」等々――。

仏作家ボードレールの言葉に(私の記憶が正しければ)、「玩具は芸術への小児の最初の入門である」というものがある。

cf. 「おもちゃとは」/財団法人 日本玩具文化財団

単に右脳開発のための……といった商品コンセプトでなくとも、玩具、つまりおもちゃが私たちの子供時代にもたらした影響は絶大である。個人的に言えば、今となっては「幼少時代はなぜ、デパートのおもちゃ売り場のショーケースの前で執拗なくらい親に買ってくれとせがんだのだろう?」と思うけれど、昨年夏に美術館巡りのために箱根にひとり二泊の旅に出た際に立ち寄った「箱根おもちゃ博物館」で感じたことでもあるのだが、過去回帰的ノスタルジーと、ある種の幼稚性(アンファンティリスム)がもたらす収集癖、それにデパートのきらびやかな夢の演出とが、とてつもなく大きな魅力として小さな胸を満杯にしてしまったのだろうと思う。

cf.
「「花と緑の物語展」 ~東京都現代美術館(後編)」
「「サムライ魂でデパートを創れ!~近代百貨店誕生物語~」」

先にも挙げたように、タカラとトミーは合併直前まで両社共に子供はもちろんのこと、大人まで巻き込んでのロングセラー商品を多く開発してきた企業である。その発案の過程の中には単に利益追求だけでない、信念のようなものも多分に含まれているだろうと思う。企業合併のケースは様々だが、そのような競合他社同士の強みを合わせあうような2社の合併によって、両社の持つ強みが一層倍増されてゆくようなイメージさえ感じる。

ところで、教育心理学の用語に「ピグマリオン効果」というものがある(派生して、人形愛を「ピグマリオン・コンプレックス」と呼ぶこともある)。ギリシア神話に登場するキュプロス島の王ピュグマリオンが、ガラテアという自らの理想像である女性の彫刻をつくり、それが人間になることを念じ思いが叶うという一種の変身譚で、それをモチーフとして描かれた有名な絵画もあるが、この神話を語源として、「教師が期待することで、被教育者の成績が上がる」ということを唱えたアメリカの教育心理学者であるローゼンタール氏が命名したものだそうである。

幼少期の子供が飛行機のおもちゃなどを片手に、エンジン音を真似ながら擬似的に飛ばして遊んでいるのを見かけるに、レオナルド・ディカプリオが演じたハワード・ヒューズの映画『アビエイター』を思い出す。おもちゃには無限の可能性が秘められており、子供のみぞ持つ無限の可能性を引き出す「夢の玩具」としての力が宿っているものと信じている。暗い世相ばかりでは大人もつまらない。せめて新生タカラトミーの紡ぎ出す夢が、今まで以上に子供たちの夢を叶える夢の増幅装置として機能し、それを見守る大人たちも楽しめるようなエンターテイメントな世の中にしてほしいと思った。

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2006年03月12日

「アンデルセン生誕200年展」 ~みにくいあひるの子がやがて白鳥になり、私らを癒しむるに至るまで~

「さあ、わたしの話すことを、絵におかきなさい」と、月は、はじめてたずねてきた晩に、言いました。「そうすれば、きっと、とてもきれいな絵本ができますよ」

/『絵のない絵本』(アンデルセン)

 今日は印刷博物館で開催中のアンデルセン生誕200年展を観に行ってきた(チケットはコチラ)。
 昨年2005年は、アンデルセンの生誕200周年ということで、事務局運営の記念展が巡回しており、2月に印刷博物館で開催される運びとなったようである。

cf.「展覧会のご案内」(アンデルセン生誕200年アジア事務局ウェブサイト

 上記エピグラムに引用したアンデルセンの代表作の一つ『絵のない絵本』の冒頭文では、月にインスピレーションを受けて、創作意欲にわいたアンデルセンの思いが描かれている。月にこうした神秘な思いを寄せたり、象徴的に扱った作品は多い。

cf.中秋の名月 -ルナティックス (※『ルナティックス - 月を遊学する(松岡正剛著)』)

 アンデルセンはデンマークの国民的作家、『マッチ売りの少女』『人魚姫』『みにくいあひるの子』などの作品で知られる創作童話作家として日本でも人気の作家である。私はアンデルセンというよりも、童話や児童文学に興味があり、これまでにも幾度かブログの中で採り上げてきた。

cf.
『ハーメルンの笛吹き男』に見る誘拐犯の心理と社会の病理
「未知の世界へ 児童文学にえがかれた冒険」展 ~過去の冒険小説には「夢」や「教養」があった。
「追悼もまた文学なり」/嵐山 光三郎 ――「ことば」を残す作家たち

上記にも見られるように、故矢川澄子女史や、澁澤龍彦(cf.変身のロマン、「野の白鳥」)といった好きな作家の影響であるかもしれないし、在りし日の講談社雄弁会(野間清治)、鈴木三重吉岩波茂雄、『暮らしの手帖』の花森安治などが唱えた教養小説志向の影響かもしれない。

しかしそれ以上に興味を持つきっかけとなったのは、大学時代のゼミの影響かもしれない。当時私は、「童謡・唱歌学」という内容のゼミを取っていた。文字通り日本童謡集や、日本唱歌集などを教科書に、古き良き昭和の世相と今の社会とを比較するという社会学的なアプローチを試みた授業内容であった。

澁澤龍彦の狐のだんぶくろ―わたしの少年時代を引き合いに出し、私も少年時代を回顧したものである。
何度かの授業の中で、上記澁澤の著作の中で語られていた北原白秋の『チューリップ兵隊』という唄を調べることにした。近所の図書館でアルス版全集を借りてきて、北原白秋の歌詞と中山晋平の旋律についてを調べた。それに並行して『コドモノクニ』版に挿絵を寄せた武井武雄、『狐のだんぶくろ』のカバー絵にも作品があしらわれた岡本帰一、影絵に郷愁を感じざるを得ない藤城清治、また生涯にわたりアンデルセンを愛したいわさきちひろ、白秋を学ぶ上で外せない、作風の対照的な叙情性の高い作風であった西条八十、その門下生であったサトウハチロー(cf.当時参考とした文献に、『サトウハチローものがたり』、『ぼくは浅草の不良少年―実録サトウ・ハチロー伝』、『うたうヒポポタマス―サトウハチローの詩と人生』などがある)、果ては中学・高校時代に読み耽ったハイネやヴェルレーヌの詩集、ネルヴァルの『シルヴィ』などに挿絵を寄せていた、ラクリエール版画工房が輩出した画家――すなわち、ジャン・フレローやピエール・ラプラードの作品群などについても調べたものだが、これらの探究行為の中にアンデルセン童話に興味を持つきっかけとなった遠因も含まれるだろう。

 それから、その後になって感銘を受けることとなる「象徴主義(サンボリスム)」――、

《サンボリスト》たちは、彼らの主要な合言葉のなかに次のようなステファヌ・マラルメの提言を数えている、

――「この世のいっさいは書物となるために存在する」。

/『象徴主義―マラルメからシュールレアリスムまで』(窪田般彌)

――故窪田般彌訳の『死都ブリュージュ(ローデンバック)』や『生きている過去(アンリ・ド・レニエ)』等の作品の中に垣間見るヨーロッパの薄暗い曇った空に映える中世の建物の醸し出すアウラなどについて触れながら、自分なりの児童作品に対する郷愁を書いたことがあった。

cf.
文化の日、「フィレンツェ ――芸術都市の誕生展」観覧 ~「アベラシオン」方法序説~
【オススメ雑誌評】 『coyote(コヨーテ)』
※上記の中でもアンデルセンに触れた。

余談ではあるが、後日大学の卒業旅行でイタリア4都市(ローマ、フィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィア)を訪れた際に、そうした郷愁をヘンリー・ジェイムズの『鳩の翼』をテーマに、ヴェネツィアの夜の美を詩にしたことがあったものだが、薄暗い雲に覆われた空、あるいは日本でも、日の長い季節の夕方が醸し出す雰囲気には強い郷愁の念を抱かずにはいられない。

先の北原白秋について書いた論文の中で、私は以下のようにその憂愁の時間帯を表現した――。

 アルス版全集に掲載された『チューリップ兵隊』の歌詞の中で私は特に第五連が好きだ。すなわちそれは「そして夢見るゆふがたは、もやにとんろり、やさしいな」であるが、これこそまさに白秋の心象風景であり、私がもっとも郷愁の念によって心傷める部分なのである。そして「チューリップ」の咲く季節、つまりは日の長くなり始める、あの春の明るい夕方のゆっくりとした時間の流れが醸し出す、深く立ち込めた郷愁の靄に囚われるのである。春ないしは夏の夕方のもつロマネスクな詩情(cf.『夏の雨(マルグリット・デュラス)』)は、私も幼少時代強く感じたことがあった。幼い子供が夕方のフィルターを通して見る光景は、昼間のそれとはうって変わり、いかにも楽しかった一日の終わりを予期させる憂いを含みながら、それでいて明日への希望も抱かせる「やさしい」灯のともる家庭への帰還までをも連想させる。  似たような時間帯による固定観念というか思い入れは誰にでもあるものだと思う。江戸川乱歩や海野十三が深夜徘徊を好み、深夜の散歩中における東京が、昼間の東京とは一線を画した異端の都市として錯覚するのもそうである。また、そういった感性が『屋根裏の散歩者』や『深夜の市長』を生んだのも事実である。

 ――随分と本展とは関係のない、個人的な回想話を長く書いてしまったが、私の童話に対する思いには上記のようなことが複雑に絡み合った結果、好きになるに至ったという背景があって、どうしてもこれだけは書いておきたかった。ある種のナルシシズムなのかもしれないが、人はこうした過去の思い出に支えられて生きているというケースも少なくない筈である。

展示の後半には、現代になって繰り返し翻訳されてきたアンデルセンの童話絵本が手にとって見れるようになっている。私が訪れた時間には人がほとんどいなかったが、一人の少女が食い入るように絵本をめくっていたのが印象的だった。時代を経ても子供に愛される絵本。残酷なイメージのあるグリムシャルル・ペローの童話も情操教育上必要なものなのかもしれないが、個人的には研究者向けなら別として、子供向けの童話に奇を衒う必要はないと思う。コクトーも称賛したボーモン夫人の美女と野獣、ワーグナーのオペラ『ローエングリン』、結論がハッピーエンドだろうとそうでなかろうと、ストーリーには心の美しさを啓蒙し、高次の次元へと昇華してゆくようなメタモルフォシスを含んだ教養小説的構成があるのが望ましい。

最後になるが、本展はあくまでも「印刷博物館」で催された展示であることもあり、ヨーロッパでまたたく間に広まっていったアンデルセン童話に用いられた装丁や挿絵の印刷技術の変遷史についても言及する部分があり、印刷・出版文化に興味のある方にとっても楽しめる企画・構成となっていたことを付記しておくことにする。

カテゴリー:[ 美術展 ]

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2006年03月11日

PSE法(電気用品安全法)が奪う!? 中古楽器店の思い出

廃業する中古店も 広がるPSE法の波紋、集会で訴え(ITmedia News)
『電気用品安全法』で中古ゲーム機もアンプも買えなくなる!?(Ameba キャリア)

上記の記事に目を通した。対象となる電気用品の種類は、上記の記事の一つに目を通すと、平易に言えば以下のようになる。

4月1日より本格施行となる、『電気用品安全法』。法で定めた安全基準を満たした電化製品に『PSEマーク』を付けて製造・販売するよう義務づけるという法律だ。これにより、2001年以前に製造された冷蔵庫、洗濯機、オーディオ機器やゲーム機などの電化製品は、PSEマークがついていないものすべてについて販売できなくなってしまう。(中略)アンプやシンセサイザー、電源内蔵型ゲーム機など259品目は、今年3月31日に猶予期間が終了する。

しかし、ここでは主に記事のテーマとして採りあげられた中古楽器に絞って書いてみることにする。

資格や免許等の規制同様、国の定める○○マークというものは得てして、「(資格を持ったなら)責任は(国ではなく資格保持者が)取れ、手柄は俺のモノ」的(cf.映画『プロジェクトA』、「手柄はくれてやる、責任は俺が取る!」)な押し付けを大衆に強いているように見える。

同法の適用により、4月1日以降は対象商品をPSEマークなしで販売すれば販売者は罰せられるのだから、せめてPSEマークを付けていて事故が起こった際には国側は単なる免責などではなく、被害者への補償を約束して欲しいものである。

ところで、"中古楽器"と言って思い出すのは、私は中学から大学時代にかけて周囲の流行に便乗してバンドなぞを組んでいた時代のことである。印象強い中古楽器店と言えばやはり石橋楽器店をおいて他にはなく、新宿店に限って言えば、「ヤマハ・ポピュラー・ミュージック・スクール」が開講していた頃に足繁く通ったものだし、お茶の水店はまさに「神田カルチェラタン」ではないが、先の石橋楽器店やシモクラセカンドハンズで、学ラン姿で「いつか買うぞ!」と固く思っていたソルダーノの真空管アンプや、アレシスの「Alesis QuadraVerb2」を前に硬直しつつ、音楽講師よろしく売場担当のお兄さんがかき鳴らすメタラーなフィルインに見とれていた若かりし頃を思い出す。大学に進学したことで趣味のレパートリーが広がったり、就職活動を迎えるにあたり時間や経済的余裕が思うように取れなくなって急速に終息していった僕の中の音楽熱は、ずっと憧れていたスティーヴ・ルカサーモデルのヴァレイアーツのギターを購入したのち、まるでバブルがはじけたかのように燃え尽きることになるのだった――。結局それら憧れの中古楽器(音響機器)たちは、二度と私は手に入れる機会を得ぬまま今に至るのであった。

確かに法律は大切なものである。しかし大切なモノは他にもある。願わくばこの法律は、私たちを守るためのものであって、決して縛り付けるものにならないことを祈りたい。

カテゴリー:[ ニュース時評 ]

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2006年03月06日

『インターネット図書館 青空文庫』 ~著作権の保護期間延長について~

ニューヨーク公共図書館は、単に本を借りるための場所ではない。名もない市民が夢を実現するための「孵化器」としての役割を果たしてきた。ここからは、アメリカを代表するビジネス、文化、芸術が数多く巣立っている。

/『未来をつくる図書館 ―ニューヨークからの報告―』(岩波書店)より

インターネット図書館 青空文庫』を読んだ。「青空文庫」と言えば、「インターネットの電子図書館」として、90年代後半よりインターネット上で展開している草の根オンライン図書館のようなサイトである。570名にのぼる「青空文庫工作員」と呼ばれる入力や校正を行うボランティアスタッフによって今も運営されている。本書はその青空文庫の創設メンバーの一人である、野口英司氏の編著によるものである。付録として青空文庫に登録されている4843作品のデータ等が収録されたDVD-ROMが付き、巻末には年表が付いている。

今でこそ「Wikipedia」(cf.「Wikipediaは果たして「オープンソース」なのか(CNET Japan)」)などのネット上のデータベースが社会的地位を得て、私たちもその恩恵に与ることが出来ているが、インターネットという地理的・物理的・経済的などの観点からでも、情報検索に関して優位性を持つ媒体・ツールが主流となってきた昨今において、ときに便利なサイトであった。

2000年12月31日にオープンした「インパク」自体は、時期尚早なものとしてイマイチぱっとしない印象のまま終了したが、その後のe-Japan戦略電子政府に対する興味をわかせ、電子カルテ電子書籍の登場を促すこととなり、こうしてインターネットの急速な普及によって、人々の生活は一昔前と比べて一変した。

そんな折、「著作権の保護期間が50年から70年に延長」されるかもしれないという議論が、アメリカ政府などからの規制改革案が持ち込まれたことによって話題性を増し、一部世論をわかせている。青空文庫のサイト上では既に「著作権の保護期間延長に反対します」というバナーが貼られ、本書の帯の上でも同じコピーが謳われている。

cf.
・はてなリング「Stop! Copyright-Extend
・「青空の行方/なにゆえの著作権保護期間70年延長か」(富田倫生氏)
・「やっぱり著作権保護期間延長を批判する」(白田秀彰 ロージナ茶会
・「ITmedia LifeStyle:特集:輸入音楽CDは買えなくなるのか?

その昔、松岡正剛氏が漏らした夢、「ネットワーク上の一角に巨大な空中楼閣のような“図書街”を出現させる」(cf.「松岡正剛の千夜千冊『ヨーロッパの歴史的図書館』ヴィンフリート・レーシュブルク」)が、やがてリアリティを持って話されるようになり(cf.「「松岡正剛千夜千冊達成記念ブックパーティー」に参加!)、実際にシンポジウムまで開催されたことがあった(cf.NICTユニバーサル・コミュニケーション・シンポジウム)ようだが、ネット上のソースやリアルな図書館が持つ蔵書が繋ぎ合わさった"図書街"が、市民が自由に膨大な歴史のデータベースを紐解くことができるような社会をもたらすとしたら面白いと思う。

本書の中にも、「著作権の権利は尊重する、と同時に、保護期間を終えた著作物は、みんなが自由に、手軽に、広範囲に利用できるようにしていく。これが青空文庫の目的といってもいいだろう」と書かれている。せっかく無料で読めるということを知らずに、学校側からの指示通りにお金を払って文庫を買っている学生なんかには是非勧めたいところである。

本書にも引用された青空文庫創設メンバーの一人、富田倫生氏による言葉が印象的である。

【著作権制度の目指すもの】

青空のぬくもりは、誰もが共に味わえる。
一人があずかって、その恵みが減じることはない。
万人が共に享受して、何ら不都合がない。

世界の中における日本。この土地から青空を眺めやるとき、私たちは一体どこの上空まで仰ぎ見ることが許されているのだろうか――。意外に私たちの可視範囲にある青空はそんなに広くはないのかもしれない。

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