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岡本太郎命日に想う。

 1996年1月7日、芸術家、岡本太郎が84歳でこの世を去ってから、もう10年近くが経つ。
昨今若い人の間で氏の著作を読んだり、表参道の記念館や川崎の美術館を訪れる方が増えているようなことを聞くようになった。「太陽の塔」が大阪の万博に登場したのが1970年、今年愛知で開かれる万博は実に35年ぶりの万国博覧会となる。そうした社会的背景もあるのだろうか。

 私も以前、川崎の美術館に足を運んだことはあったが、「芸術は爆発だ」という語録が先走りしている氏の具体的な活動についてはあまり知ることがなかった。ただ、学生時代、卒業論文で澁澤龍彦を論じた際、埴谷雄高から「夜の会」へ、アバンギャルド芸術から花田清輝と、参考になるような本を渡り歩いていった結果、「今日の芸術はうまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない」という、いわゆる「対極主義」の思想を知り、その思想に至るまでの氏の軌跡の中に、澁澤を論じる以上不可欠な要素、――すなわちシュルレアリスムを垣間見るのであった。ブルトンやエルンスト、バタイユらとの親交は、どうしても興味を惹くものであった。

 とは言え、芸術家岡本太郎の本質を知るには、まだまだ多くのことを知らな過ぎた。ご存知のように、常に革新的な芸術を追い求めた氏の軌跡は、冒頭に挙げた大阪万博のために制作したモニュメントもあれば、先の対極主義、抽象芸術・シュルレアリスム傾倒、東北や沖縄に関する民族学や縄文土器論、マルセル・モースに師事した人類学、そしてマスメディアへの進出等、活動が多岐に渡り過ぎていて、その一旦だけを知っても氏の言いたいことはなかなか伝わって来ない。つまり難解なのである。

 何となく分かっていることと言えば、東郷青児が会長を務めた二科会の脱会劇以降、常に何か漠としたものへの挑戦、何かとの闘いを続けてきた芸術家というイメージがあるくらいである。

 今私の手元にある資料といえば、1970年の万博を記念して発行された、『岡本太郎 EXPO'70 太陽の塔からのメッセージ』という図録くらいである。そこには、「人類の進歩と調和」という万博のテーマにおいて、プロデューサーとして抜擢された氏の思いが書かれてあったり、「太陽の塔」をはじめとした様々なモニュメントが掲載されている。

 「太陽の塔」建設当時、多くの知識人から疑問の声も多かったと聞く。それはまさしく氏の言うところの「ベラボーなもの」であったが、期間中に万博を訪れた6400万人の市民たちからは概ね快く迎えられたという。パリのエッフェル塔が初めて民衆の前に姿を現した1889年のパリ万国博覧会、フランス革命100周年を記念したモニュメントとして建てられたが、当時のパリでもその無機質な鉄塔に賛否を呼んだそうである。1964年に開催された東京オリンピックに続き、大阪万博開催の前年1969年には、アポロ11号による人類初の月面着陸に世界中が沸き、世界77ヶ国が参加したと言われる大阪万博を契機に、日本は世界の中の日本として諸外国からの文化を貪欲に吸収し始める時期を迎えることになる。

 芸術のエネルギーが、都市や交通をはじめとした産業を突き動かし、ハードが整ってきた後はソフトとしての人々の文化的志向が強まり、やがて芸術へと再び回帰してゆくような、そんな音もなく、時代が何か小さいけれども強い魂のような一点の概念によってゆっくり進んでゆくような動力の源は、まるで氏の言う「爆発」のようにも受け取れる。

 岡本太郎亡き今、「爆発」を誘引する火種はどこにくすぶっているだろうか?氏の命日に、改めてそんな思いに駆られるのであった。

カテゴリー:ニュース時評

投稿者 cyberpoet : 2005年01月07日 02:30

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