『ミュージアムが都市を再生する 経営と評価の実践』 ~日本版ソーシャル・キャピタルを育むための独立宣言~
私は本書、『ミュージアムが都市を再生する 経営と評価の実践』(上山真一・稲葉郁子著/日本経済新聞社)をバイブルとして、今後の自身の方向性を考えていきたいと思っている。また人生の指針、バイブルにもなる著作とさえ思える。そして今日の日記は、私のこのサイト自体のサイトコンセプトともなるだろうと思っている。
本書の概要は、従来まで相対する事象として広く認知されてきた「資本主義経済」と「文化芸術振興」という二つの民主的な動きを、それらを相対峠させて考えること自体を批判するものである。
共に共生させてゆく考え方を、ミュージアム側、ビジネスライクな立場に立ち、国内外の幾つかの事例を挙げつつ、その可能性を模索する。
誰もが分かっているように、私たちが生きるこの社会は常に変動している。
10年前のインターネット黎明期には、こうしたブログをはじめ、今のようなネット社会が出来ることなど、どれだけの人間が想像できただろうか?
戦後、日本はモノ作りの時代と呼ばれ、団塊世代を中心として高度成長期を歩んできた。やがてバブルを迎え、崩壊し、長い不景気に突入し、「ニート」などという新たな語を生んだ。一部の政治不信や鬼気迫る国際情勢、度重なる大型天災などで、『日本沈没』の書かれた1973年当時の世界規模での石油ショックやモノ不足の深刻化にあえぐ時代と同じような心境に直面している。しかもそれが、「何が原因で」という特定できる要素もなかなか見当たらず、ただ極自然発生的に迎えたある種の氷河期である。
おそらくは今後しばらくの間、こうした悪いスパイラルから日本は脱出できないだろうと推測している。
単純に考えて、昨今長らく続く景気の低迷は、失業者や犯罪者、買い控えの消費者の増加を促し、税収が減る。一方で続く少子高齢化はますます進み、やがて都市財政は破綻をきたし、国民への還元どころか搾取の方向へと向かい、産業の衰退へと繋がってゆく。産業の衰退は職人を減らし、芸術が育たない文化を生み出し、国民の不安を解消する、あるいは激しい労働をねぎらい癒すような文化は廃り、無秩序で荒廃した社会を創り出してゆくのだと思う。
それでは、一体誰が、こうした悪循環に歯止めを利かすのか?これは政府でも行政でも自治体でもない。企業やNPO、そして民衆自らが動き、社会を変革してゆく他ないのである。そのために必要な要素と著者が言うのが、「ミュージアムの再生」であると言う。それこそが、タイトルにも挙げた「ソーシャル・キャピタル」――、日本流に言い換えれば「社会資本」ということになろうが、そうした概念を認知させ、民度を高めてゆく起爆剤となるのではないか?
ミュージアムと一口に言っても、もちろん美術館や博物館をはじめ、歴史・民俗博物館や科学博物館、文学館、水族館やプラネタリウムまで種々あるのであるが、これらの再生と言うのは、実は数的に言えば、日本全国に数千館以上あるのである。それら全てが経済的にうまく機能していないことが槍玉に挙げられ、時として「資本主義経済」と相対するものとしての認知をされているケースがほとんどである。しかし、昨今の風潮はと言えばどうか?昨年の「ヴェネチア・ビエンナーレ第9回国際建築展」に日本が選んだテーマは「オタク」だった。また、昨今ネット上でしばしば話題となっているのが、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サイト)と呼ばれる新しい形態のコミュニケーションの場があるが、こうした文化を生んだのは、長い不景気を背景に、私たち自らが望んだ、あるいは欲した文化ではなかったか?つまり人とのコミュニケーションを図りたい、人から多くの知識を得て自分の糧にしたい――、そういった気持ちを生んでいったのは、まさにそうした社会の変動によるものが大きいと思う。
確かにミュージアムへ訪れる人数は年々減っているという。
本書でも挙げられているが、事実一時の企業メセナがブームとなった80年代以降、こうしたミュージアムが相次ぐ閉鎖に追い込まれている。
近年で言っても「セゾン文化」という言葉を生んだ、セゾン美術館(西武美術館)を皮切りに、東武美術館、三越、小田急、伊勢丹などの都内百貨店の美術館が相次いで閉館した。百貨店誕生100年の歩みの中で、私たちは初めて経済にあえぐ百貨店の姿を見ることとなった。また、目黒雅叙園美術館、出光美術館(大阪)などの企業ミュージアムや、五島プラネタリウム、サンシャインプラネタリウムなどの自然科学系のミュージアムが閉鎖に追い込まれた。今や少子高齢化や景気低迷といった社会的情勢を背景に、パトロンやフィランソロピーの精神を持った有志を失い、こうしたミュージアムを守ろうという意識は低下した。
ところが他国ではうまく運営しているミュージアムがある。代表的なものが、ニューヨーク・マンハッタン地区にある主要な3つの美術館――すなわちメトロポリタン美術館、ニューヨーク近代美術館(MoMA)、グッゲンハイム美術館である。しかもそれら3つのミュージアムはそれぞれ異なるやり方で成長を続けてきた。本書からの引用となるが、「美術館の運営もゼネラル・モーターズの経営も変わりはない」と言ったトマス・ホーヴィング氏がかつて館長を務めたメトロポリタン美術館では、そうしたビジネスライクな経営方針で地元企業などとうまくタイアップし、年間20億円相当の収入にもなるという会員を増やした。昨年六本木ヒルズで行われた展覧会以降、日本でも一般の人々からの関心を多く集めたニューヨーク近代美術館(MoMA)は、90年代に作られたという「MoMA」の愛称とロゴマークでブランディングを図り、今では大分質量ともに増えたミュージアムグッズをオンラインショッピングで購入できるようにするなど、インターネットをいち早く導入・実践させた展開で美術館自体の単体収支を支える事業を立ち上げた。また、グッゲンハイム美術館も、昨年、渋谷文化村に展示品が来て話題になったが、ここはフランク・ロイド・ライトが建てた美術館ということで、美術館そのものが建築物として話題になっているなど住民を喚起するための要素を秘めている。もちろん美術館の創設者である鉱山王ソロモン・R.グッゲンハイム氏は、他のナショナル・ギャラリーを建てた銀行王アンドリュー・W・メロン氏や、その他石油王ロック・フェラー、金融王モーガン、鉄鋼王カーネギー、石炭王フリックといったアメリカン・ドリームを叶えた資産家、大富豪、財閥・財団など、「現代のメディチ家」と著者が言うところのパトロンとして運営を続けているNYスタイルの代表格である。ここは他国への分館進出など、ともすると行き過ぎた「経営姿勢」が賛否両論を呼ぶこともあるそうだが、3つの美術館とも日本ではあまり見られないような成功をおさめたミュージアムであると思う。
このようにして、ニューヨークではマンハッタン・ソーホー地区をはじめ、今も世界から芸術家たちが集まってくるなど、芸術文化は金融と並ぶ2大「産業」となっているかのようである。
今、日本でも似たような社会的変革が起こっている。モノ作り中心であった戦後の風潮は、大手企業の衰退に併せて草の根のように登場してきたベンチャー企業が増え、人作りやコミュニケーションに注目されるようになってきた。著者はこれらを「大木経済」から「雑木林経済」へ推移しているというように呼んでいる。これを文化政策的に置き換えて言えば、国家や行政主導であった地域づくり、まちづくりを、企業や個人レベルでの動きにシフトしてゆかなくてはならないことを示唆しているかのようである。
今、「創造都市」という言葉がもてはやされている。これはイタリアのボローニャや、日本で言えば京都・金沢といった産業と文化が一体となったある種の独立都市のことを指して言われることが多いようだが、著者はそのために必要な創造性を育むために、イノベーティブな人材作りを挙げている。こうした人材は、従来までの「大木経済」からよりも「雑木林経済」からの方が生まれてきやすいのではないかと思う。かつて赤瀬川原平氏が唱えた「老人力」ならぬ「地域力」を育て、小さなコミュニティ(共同体)から起こった、きちんとした運営指針によってミュージアム運営を行い、著者が言うところの「単体収支」→「地元経済効果」→「創造都市効果」というステップを踏み、真の意味での豊かさをもたらす。これは決してユートピア構想なんかではなく、条件さえ満たされれば実際に可能なことではないか?
まもなく始まる愛知万博、30年ぶりに日本で開催される万国博覧会に期待が膨らむ。
既に開催会場である長久手町では交通網などをはじめ、インフラ整備が進んでいると聞く。かつてパリやロンドンを、世界のそれにまで押し上げた万博効果、岡本太郎亡き今、私たちは私たち自身でこの一大イベントを盛り上げていかなくてはならない。もちろん開催するにあたってのメリット・デメリットもあるし、開催をすることによって主旨から外れるという矛盾もあろうから賛否があるのは当然だが、少なからずこの長久手町だけでなく、日本全国、ひいては世界にまで波及する可能性を秘めたイベントである。
会期終了後も、大阪万博公園やパリのオルセー美術館のようにコンバージョン事業として再利用されるケースもある。これらが他方「スクラップ&ビルド」事業的な六本木や丸の内再開発事業、安藤忠雄氏が進める青山同潤会アパートの建て直し事業などとともに、文化経済に寄与することになるだろう。
今年は、万博会期終了後にも「横浜トリエンナーレ2005」が控えている。こうした社会的変動が、先に述べたソーシャル・キャピタル(民度)を高めてゆくための動きになれば良いなと考えている。
私はそうした社会的動きに賛同・推進するために、自分が出来ることを自分なりに進めていきたいと考えている。本書はそのための教科書として、常に手元においておきたいと思った。
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