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2004年11月20日

「ヴィクトル・ユゴーとロマン派展」 ~ユゴー生誕200周年記念~

※旧「楽天広場」時代のブログより転載。

ヴィクトル・ユゴーとは、自分がヴィクトル・ユゴーだと思い込んでいる狂人だ。

/ジャン・コクトー

 今日は前から楽しみにしていたヴィクトル・ユゴーとロマン派展を見に行って来た(チケットをアップ)。場所が八王子にある東京富士美術館で家からも割と遠いので行く機会を失っていた。前回訪れたのは高校生のとき、大ナポレオン展を見に行ったときであったが、ユゴーとナポレオンとはゆかりも深い。

 ヴィクトル・ユゴーは、代表作レ・ミゼラブルや、ディズニー映画の『ノートルダムの鐘』の原作であるノートル=ダム・ド・パリ(ノートルダムのせむし男)など、近代フランス文学史上における金字塔的作品を多く残した19世紀の大文豪として知られる。確かに文学のみならず、詩、演劇、絵画、そして政治の世界でも、その人となりをあらわすフランスロマン主義・人道主義(ユマニテ)が大衆を虜にした偉業は本国フランス以上とはいかなくとも、多くの日本人を魅了したことだろう。

 確かに、「あなたが知っている代表的なフランス文学者は?」と聞かれたら、まず初めに「ヴィクトル・ユゴー?」と思わず答えてしまうだろうなと思い、自分のオススメ本を紹介していこうとしているサイトの別館にて、「フランス文学」作品として第一に採り上げてみた。

 2002年に生誕200周年を迎えたユゴーの業績を讃えた本展では、ユゴーや革命に対するオマージュのような箴言で埋め尽くされていた感がなくもなかったが、フランス国宝を含む稀少な展示も多く、それなりに満足した展覧会であった。

 ユゴー作品に関しては、幼少時代に読んだ「レ・ミゼラブル(もしくは「ああ、無情」)」の児童文学と、以前読んで強く感銘を受けたあまり推薦詩を書いたことがあったくらい熱狂した死刑囚最後の日くらいしかない。ミュージカルなどでは何度も公演されているし、フランス史や革命や悲哀をテーマにした作品なので日本人女性の多くは、私などよりもはるかにユゴー好きの人が多いと思われる。

 まず、ユゴーの人となりを知るのに重要だと思われる『レ・ミゼラブル』についての話を書きたいと思う。社会人になるとなかなか長編作品を読む機会がなくなるものだと思われるが、実際、私もかつて読んだのは児童文学版しかない。以前タラナイさんも日記の中で「心温まるただの人情物語ではなくて、革命を背景にした、大叙事詩でもあるのだ。」とおっしゃっていたが、おっしゃる通りだと思った。ユゴーの生きた時代はまさに革命期、日本で言えば板垣退助などがユゴーと外交に当たっていた時代と言われる。

 松岡正剛氏が「千夜千冊」の中でも書いているが、私も以前に鹿島茂氏の「レ・ミゼラブル」百六景 木版挿絵で読む名作の背景という著作を読んでいたことがあり、にわかにその感動がよみがえった。この本はフランスの「ユーグ版」と呼ばれる360以上もの挿絵の入った版を読んだ作者が、代表的なシーン毎に挿絵を紹介しつつ物語の背景にある当時のフランス社会について説明をしながら、原作を読んでいようといまいと、読者が物語としての醍醐味を味わえるという構成になっている。

 表紙はミュージカルの公演告知ポスターなどにもよく使われている、貧しい身なりをしたコゼットが体の割に異常に大きな箒を持たされている場面。他にも展覧会で彫像となっていた、有名なコゼットの水汲みシーンの版画もあった。

 一切れのパンを盗んだがために19年間を牢獄を過ごした主人公ジャン・ヴァルジャンをはじめ、ファンチーヌとコゼット、主人公とともにユゴー自身の思想を投影させたかのようなマリユスの人となりについて書かれていて、その他ミリエル司教、ジャヴェール警部、テナルディエ夫妻、アンジョルラス、「ABCの友」etc……、『レ・ミゼラブル』の登場人物は本当に一人一人が、役割を持って今すぐにでも動き出しそうな程のリアリティで表現されている。

 少年犯罪が増えていると言われる日本。最近では幼少期にこうした本を読まない風潮があるのが原因だとも聞かれる。本を読んだからといって犯罪を起こさないわけではないと思うが、弱者の救済に関するテーマの本には、その背景に深い意味や歴史があることが多いものである。

 パン一つを盗んでなぜこんな厳刑に処されるのか?
ジャン・ヴァルジャンに対するミリエル司教の救済、法の番犬ジャヴェール警部に対する盗人ジャン・ヴァルジャンの救済、それは20世紀フランスにも生き続け、ジャン・ジュネに対する大統領の特赦(参考:「松岡正剛の千夜千冊」)、そうした経緯をおいて、1981年、ギロチンの生みの国フランスでフランス革命以来使用されていたギロチンとともに死刑制度は廃止された(cf.そして、死刑は廃止された)。

 死刑制度についてユゴーは反対者であったが、日本では未だに死刑に処される人がいる。これ自体の良し悪しは私には思想はないが、死刑に値するだけの犯罪が絶えない事実を証明されていることにはなると思う。

 ユゴーの実践した人道主義が単なる理想主義とさえ成り果ててしまうような社会、もしくは政治下においては救済も何もないが、いつの時代も没個性化はマスコミやセクト、カルト集団を介して全体主義を生みだす風潮であった。もしかするとマスコミに変わらんとする、それ以上にゴシップの流れやすい今日のネット社会にもそうした没個性化を生み出す元凶があるかもしれない。

 いろんな思いが錯綜し止まないが、本題とはズレるのでこの辺で……。ユゴーの作品には、『レ・ミゼラブル』以外にも多くあるので、今度ゆっくり読みたいなと思った。

カテゴリー:[ 美術展 ]

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2004年11月17日

Pen 「(特集)美しいブックデザイン」

※旧「楽天広場」時代のブログより転載。

 キオスクで最新号のPenを購入してみた。

 特集が「美しいブックデザイン」、つまり装丁特集である。私は特にこだわりを持って装丁を追いかけているわけではないが、本や雑誌を買うときに何となく目についたり、ときには装丁だけで無性に欲しくなったりすることもあって、我ながら不思議だなと感じることはあった。それはこのページ内の「古本」コーナーに書いたように、ある種のノスタルジーの影響かもしれないし、最近レベルがどんどん高くなる企業や個人のWebサイトのデザインの影響かもしれない。

 先日からよく引き合いに出しているSNSサイト「mixi」の中で、何の気なしに「装丁」というコミュニティを立ち上げたのは今年5月のこと。流行りと言えば流行りなのかもしれないが、まさかこんなマイノリティなコミュニティのテーマに、今日現在で720人以上もの賛同者が現れるとは思ってもいなかった。また、以前に文京区小石川にある「印刷博物館」を訪ねるきっかけをもたらしたのも、そのコミュニティに情報を投稿していただいた参加者の方からの情報が元だった。

 この印刷博物館には、館長である粟津潔氏が著名な装丁作家、兼デザイナーであることもあり、今回の「Pen」にも出ていたチェコの装丁などに関する本やコーナーも充実したものであった。

 こうしたふいの過熱は、以前にも触れたことのあった書店、ユトレヒトなどが、さらなるブームを築いていっているのかもしれないと思った。

 また、あいにく私は見る機会を逃したが、つい先日まで東京都庭園美術館にて、幻のロシア絵本 1920~30年代展という展覧会をやっていた。この時代はちょうど第一次世界大戦が終わり、世界が平和に向かって歩み出し始め、再び悲運の第二次世界大戦へと突入してゆく40年代初頭にかけての束の間の平安の時期だった。アーティストたちがせめて子供たちには平和な思いをと願って、こうしたやさしい雰囲気の絵本が多く作られたのだという。

 ときにはそれとは逆に、ヒトラー時代のデザインなどの本によれば、葉書やポスターなどにまで、ある種のプロパガンダを込めたデザインを施したりなどされたが、そうした動きは日本にもあって、少年倶楽部文庫などで書かれている山中峯太郎をはじめとした作家の作品にも戦時色の強かった時代ならではのテーマの著作もあった。

 それから、以前に訪れた「バラの宮廷画家 ルドゥーテ展」では、荒俣宏氏などが書かれるボタニカルアートの大著と言われる作品などの紹介もあったし、関連した話を挙げればキリがないのだが、ウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動が、本をアートとして見る見方をもたらした話(cf.『美術手帖』「アートブックの魅力」~美しき本のカルト アートブックの二十世紀/海野宏)や、先の荒俣宏氏や、伊藤俊治氏が懐古する『プレイボーイ』誌のピンナップなどまで、そういう点でおよそ装丁というのは、商品であり芸術であるのと同時に、ある種の文化の投影だったのかもしれないと思ったりもした。

 以前に何度か紹介したことのある作品社発行のメルマガ「随筆名言集」に、かつて堀口大学氏が装丁について書いたときのものがあった。堀口氏が装丁について――、

きもの──と云つてはいけないかも知れない、むしろ身だしなみと云ふべきであらうか──(中略)装幀も是非それぞれの書物の内容の表情であつて欲しいと思つてゐる。

 と紹介していたことがあった。

 なるほど、と思いながら改めて今号の「Pen」を手にとってみる――。世界各国の珍しい装丁の本、可愛らしいものから奇抜なものまで、多くの装丁が並んでいる。コンピュータグラフィックが隆盛を極める現代において、人の温もりを感じさせるような装丁の本が、世界にはまだまだ存在するのだなと感じた。

カテゴリー:[ 書評 ]

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2004年11月14日

「人とロボットが共存」する2020年。ロボットはパソコンを超えて普及する!?

「ところが両派とも危険が迫っていることを見ようともしなかった。たとえ、<太平洋の宝石>がこなみじんになっても、けっしてゆずろうとはしなかったろう。」

/『動く人工島』(原題:「スクリュー島」)/ジュール・ヴェルヌ
~「右舷と左舷との争い」の章より抜粋。


 先日、上野の国立科学博物館に行ったときの感想を日記にも書いたが、そこでエピグラムとして引用した、カレル・チャペックの『ロボット(R.U.R.)』(ロッサム万有ロボット)について関連した内容になるのかもしれないが、今日は10日に発刊したフジサンケイビジネスアイの特集、『愛・地球博まであと5ヶ月 「プロトタイプロボット」が姿を現す!!』に目を通していた。

 「プロトタイプ」とは通常「試作品」を意味するが、新聞には愛知万博で紹介される予定のプロトタイプロボットの一覧が表組みで紹介されていた。人間の生活に密着した愛玩、あるいはコミュニケーション用ロボットから、医療・福祉に役立つと思われるロボット、また昨今のテロや地震などの時勢の関係か、汚染物質を発見・採取するテロ対策用ロボットや、倒壊家屋から人を助け出すレスキューロボットなどの紹介文が出ており、それらを目の当たりにできる愛知万博に対し、今から大変興味深い展示を期待してしまう。

 この「愛・地球博(愛知万博)」には以前より興味を持っているが、「万博」と聞いて思い出すのは、私の世代だと多分、85年の「つくば万博」だという人が多いのではないだろうか?

 人とロボットの共存を図ることによって、今よりも豊かで平和な日常が訪れるのかと思うと、今からワクワクしてしまう。後述するアイザック・アシモフが、かの「ロボット三原則」を唱えた1940年代初頭以降、日本でもそうした近未来の生活に思いを馳せたアニメが人気だったようである。

 手塚治虫の人気アニメ『鉄腕アトム』が生まれることになっていた2003年のときには、もちろんあそこまでの科学は発達していなかった。19世紀末にSF・冒険小説を書いていた作家が予言した20世紀末の人々のライフスタイルも同様にそこまでは発達しないものの、ある程度の予言は的中していたかもしれない。

■参考日記
まもなくあの「鉄腕アトム」が生まれます。

 鉄腕アトムは、主題歌の中で「こころ正し ラララ 科学の子」と歌われたように、人間の味方である。これはちょうど、先述のSF作家アイザック・アシモフが掲げた「ロボット工学における三大原則」、すなわち氏の代表作品には冒頭に書かれているが――、

一、ロボットは、人間に危害を加えてはいけない。
一、ロボットは、人間から与えられた命令に従服しなければならない。
一、ロボットは、前掲第一条および第二条に反する恐れのない限り、自己を守らなければならない。

――に適う人型ロボットだった。

 しかし、こうした定義はいつの時代もアンチテーゼを生み出し、野心を抱いた人間の奸計によって崩れ去るのが皮肉なことでもあった。これはアニメやゲーム、映画の世界ではおなじみの展開だが、現実の世界でも同じことなのかもしれない。

■参考日記
押井守監修『イノセンス』公開記念 「球体関節人形展」を見てきました!

■参考サイト
アイ,ロボット

 ところで、HONDAの「ASIMO」、私はてっきり先のアイザック・アシモフの名からネーミングしたものだと思っていたのだが、どうやら違うみたいである(参考サイト)。

 前にも書いたことがあったかもしれないが、今度の愛知万博のテーマには今の時代を反映して「IT」が主眼に置かれているそうで、今からとても楽しみで仕方がない。いつの日か、ロボットがパソコンを超え、もしかするとあらゆる面で人間を超える日が来るのかもしれない。そのときがきたら是非――、表現能力が足りずパラドクサルな意見となってしまうかもしれないが、限りある資源の搾取ではなくて、まさに冒頭で述べた「宝石」の如き豊かな自然を守ってゆくような科学へ利用されてゆくことを願いたい。

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2004年11月11日

【オススメ雑誌評】 『coyote(コヨーテ)』

※旧「楽天広場」時代のブログより転載。

 私は比較的雑誌が好きで、結構衝動買いしてしまうタイプの人間だと思っている。なので、ちょっと見慣れない雑誌などが創刊されると、ついつい手にしてしまい、その後も何となく買ってしまい、雑誌貧乏になっているというようなことも少なくない。

 そういった背景もあり、今は割と雑誌を買うのを自粛していたものだった。いろいろ逡巡している時間が長いと、心なしか、殊「自分好みの内容の雑誌」に関しての直感が働くようになるというか、ある面で目利きになったかにような錯覚に陥ることがある。これは単に雑誌を買うための自分なりの口実なのかもしれないが(笑)。

 それが今回ご紹介するcoyote(コヨーテ)である。創刊は今年の夏だが、つい先日も都内の書店にて、創刊号(特集 森山大道 その路地を右へ)と、第2号(特集 星野道夫 ぼくはこのような本を読んで旅に出かけた)をまとめ買いしてしまった。

 この雑誌は、先行する『SWITCH』などの雑誌を刊行する、新井敏記編集長率いる株式会社スイッチ・パブリッシングの刊行物である。『SWITCH』は読者数も多いのかと思うが、私は2000年1月号(特集 岡崎京子)しか所有していないぐらいで、私にとってこの『coyote(コヨーテ)』は、随分と新鮮なイメージのある雑誌に映った。

 この雑誌のテーマは一言、「旅」に集約される。『SWITCH』が特定の人物について深く追求したのに比べ、同じ人物評でも「旅」がテーマの重点に置かれている。
 『coyote(コヨーテ)』のWebサイトでは、先の新井敏記編集長が書く日記を読むことができる。第1回の日記を次のような言葉で締めくくっている――。

「夢見た旅をもう一度考えてみることから雑誌作りを始めたい。」

 そういえば旅を愛してヨーロッパ各地を遊学したアンデルセンは、「旅は精神の若返りの泉だ」と旅に思いを込めている――。

 かくいう私はといえば、「旅」には縁遠い。一人旅はもちろんのこと、年に何度かの定期的な旅行なども行っているわけでもない。ただ、その反発からか冒険小説に関しては割と好きな方だったと思う。

 ――1954年生まれの新井敏記編集長は今年50歳。まだまだ様々な事象に興味が尽きないのか、誌面の内容は濃いものとなっている。

 一冊950円の本誌を高いと受け取るかどうかは読者によると思う。全編にわたって多くの写真やイラストをふんだんに配し、背表紙の付いた厚手の表紙に、各号にはタブロイド紙を模したものや、カラーの小冊子などが綴じ込み付録として付いていたりと、「自分の好きなことを書きたい」と言った、編む者のこだわりがたくさん詰まっている。

 次の休みの日にぶらり空想の旅へと出るのに、この雑誌はとても手ごろである――。

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2004年11月07日

国立科学博物館 ~11月2日グランドオープンの新館に行って来ました!~

※旧「楽天広場」時代のブログより転載。

いつかもしかしたらそう遠くない時期に、私が著者としてこれらの鈍感なメカニズムの力を、私の望む方向に導いたように、誰かが馬鹿な人間大衆を世界や神に反対するように導くのではないかという恐れにとらえられた。(中略)ねえ、このようになると信じられるかい?

/『ロボット(R.U.R.)』/カレル・チャペック

 昨晩は、というより今朝の話だが1度帰宅した後昼頃まで寝てしまった。

 上野にある国立科学博物館(通称「科博」)の新館が2日にグランドオープンしているという話を先日も日記に書いたばかりだが、来週まで待ちきれず今日は取引先の担当者を誘って一緒に見に行くことにしてあったので、昼過ぎから上野で落ち合った。

 以前購入した、私の愛読誌の一つである『東京人(2001年2月増刊)「上野の森を楽しむ本」』の中では、「上野の森」とはゆかりの深い、安藤忠雄氏や日比野克彦氏、それから好きな作家にも挙げている池内紀氏や出口裕弘氏が寄せた随筆や推薦文が掲載されていたが、出口裕弘氏の文章の中にあった「少年のころ京成電車の沿線に住んだことがあり、終点ではなくその前の、今はなき「博物館動物園」という地下駅で降りて、むろん動物園にも行ったが、科学博物館へよく通った」という一節があり、自分もいつかは行ってみたいと思っていたところだった。

 グランドオープンの告知が割と浸透していたのか、それともオープンしてすぐの日曜日だからか分からないが、とにかくすごい混み様であった!特に子供連れの方が多かった。確かに展示の仕方にはとても工夫がされていて(松岡正剛氏風に言えば「編集」が行き届いているということになるかもしれない)、例えば渋谷の「電力館」のように、見学者が体験できるコーナーがあったり、無料で提供されるICカードを持ち歩きながら館内を巡れば、展示内容のデータベースを後ほど「科博」のサイト内でID認証して履歴を参照することができるなど、リアル&ヴァーチャルを駆使した今風の企画も練りこまれていて感心した。

 まだ行かれていない方のために展示内容を幾つか列挙したかったのだが、いつもさらっとしか見ない私でも、2時間で見切れなかった程の展示量(地上3階、地下3階)である。先に紹介した公式サイトを見るか、実際に見に行った方がはるかに理解できると思うので、ここでは簡単な紹介のみにして割愛しようと思う。

 宇宙や地球の誕生に始まり、恐竜の絶滅についてや、生まれて初めてみるような陸海の動植物や細菌・寄生虫の化石や標本、人類の誕生・進化、民族の移動や文化の発達について、近代における産業や工業の発展史をパノラマ展示、化学や物理の解明を体験しつつ、大地震や火山噴火のメカニズムを巨大なスクリーンで見たりと、とにかくとても一日では頭に入りきらない情報量である。

 宇宙や地球の神秘については、特に男性の方は無条件に好みそうなテーマだと思うのだが、個人的には『プロジェクトX』風な内容だった展示ブース(2階、「科学と技術の歩み -私たちは考え、手を使い、創ってきた-」)が特に楽しめた。機体の大きな零式戦闘機(零戦)や、旧国鉄のリアルタイム座席予約システム「マルス」の展示などは、かなり広いスペースがないと出来ない展示だろうと思うので必見である。

 特にそれが、この上野公園内にある国立科学博物館で展示されているということに、自分の中の想像力を掻き立てられてならない。
 以前も紹介した、初田亨氏の書かれた『百貨店の誕生』という本の中でも触れられているが、明治10年に開かれた内国勧業博覧会(この年の第一回から第三回目まで)の会場が、この上野公園だったのである。先述の『東京人』の1996年10月号の特集「明治がいっぱい風俗画報」の中でも、開催当時の会場全景の様子がイラストで紹介されていた。

 内国というのは、万国博覧会の「万国(全世界)」に対して、日本国内での博覧会というのを意味しているのだと思うが、博覧会と言うくらいなので、当時最先端の科学技術や芸術、そして流行を多数紹介していたのだと想像する。
 私はそうした日本の産業の一大発展史を、日本の産業の生誕の地とも言える上野公園内にある国立科学博物館の館内で、ある種箱庭的に整理整頓された空間を前に、簡単に一望出来るという嬉しさを感じることが出来た。

 科博のパンフレットには、「自然との共存をめざして」というスローガンが掲げられ、「生き物たちが暮らす地球の環境を守り、自然と人類が共存可能な未来を築くために、私たちはどうすればよいか」と問いている。そしてその問いに対して、「みなさまと一緒に考えていきたいと思っています」と結んでいる。実際に見に行かれた方は、どのように感じたものでしょうか?

 地球上の生物の数は、現在の科学で認められているものだけでも160万種と言われているそうである。人間はその中の1種にしか過ぎないのに、1種の内でも共存共栄の可能性に懐疑を持ってしまうような昨今の世相である。

 私も数年前に突然思い立って、自然科学について書いた文章があるのだが、下段にエピグラム代わりに引用したギリスピーの思想に倣い、自然科学と人文科学のバランスをとるところから始めるためにも、この科博――、国立科学博物館は大いに活用できそうだなと感じた。

科学の学生は人間の研究から手をひいてよいでしょうか。高潔な心情をすて去ってよいでしょうか。

/C.C.ギリスピー『科学思想の歴史 ガリレオからアインシュタインまで

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2004年11月03日

文化の日、「フィレンツェ ――芸術都市の誕生展」観覧 ~「アベラシオン」方法序説~

※旧「楽天広場」時代のブログより転載。

私の思うには一つの絵を鑑賞する最も確かな方法は、はじめはそこに何が描いてあるかはいっさい決めないこと、そうしてそれの仕切られた一劃に点々と同時にある色の列びから迫ってくる感応の糸を糸一歩と手繰りつつ、心像(イメージ)から心像、想像から想像へと昇りゆき、ついに主題の理念に、時には、ついぞそれまでには味わったこともなかったただもう喜びのおもいにひたるにある。

レオナルド・ダヴィンチの方法』/ポール・ヴァレリー

 昨日の日記からの続きである(笑)。――ということで、漫画喫茶の個室の中、リクライニングチェアの上で気持ち良く私が目覚めたのは午後3時過ぎ。

 見事に寝過ぎである。寝過ぎないようにあえてイスで寝ようと思ったのだが、昨今の社泊増のせいか、最近イスで寝るのに変に慣れたのか、むしろベッドで寝るよりも落ち着いて熟睡できるようになってしまったのかもしれない……(笑)。

 今日11月3日は文化の日。戦前で言うところの「明治節」。つまり新暦で言うところの明治天皇の御誕生祝賀日である。ネット上で「祝日法」について調べてみると、大体どこにも「自由と平和を愛し、文化をすすめる」などと書いてあり、今では明治天皇を敬うとか輝かしい明治時代を思うというよりも、圧倒的に文化的研鑽に勤しもうという考えが多いのだと想像される。

 ちなみに明治天皇は17歳くらいまでの多感期を京都で過ごされたと聞く。京都は実は小学校3年生のときに学校を休んで親と旅行に行った以来、2度目はまだ行っていない。いつかゆっくり時間がとれたら巡ってみたいと思っている。
 京都と聞くと有名大学があるとか、学術的な古書を扱う書店が多そうとか、そういった先入観もあって文化的な印象が強い。今日の日記のタイトルにもあるイタリアの都市フィレンツェとは、1963年以来姉妹都市の関係にある。

 今日は久し振りに上野に行った。もちろん東京都美術館で開催中のフィレンツェ ――芸術都市の誕生展を見に行くためである(チケットはコチラにアップ)。
 国立科学博物館の新館がグランドオープンしたというニュースを聞いて、ついでに立ち寄ってこようかと思ったが、これは朝から来てゆっくり見ようと考え直し、外から眺めるだけにとどめておいた。

 東京都美術館の館内では、ジョット、ミケランジェロ、ボッティチェッリ、ヴァザーリといった14世紀から16世紀にかけてのルネサンス期イタリアを代表する芸術家の作品が、絵画にとどまらず彫刻や金細工、織物など幅広く展示されていた。

 ルネサンスの開花した中世イタリア――、当時の人々にとって関心の強かったものとして、バルザックやデュマなどが書いたカトリーヌ・ド・メディシスや王妃マルゴなどを中心として起こった政治や宗教や戦争などもそうだが、土木・建築、服飾・装飾、音楽・美術・文学、また医学をはじめとした自然科学etc…、まさに文芸復興と呼ばれるだけあって、様々な発見が人々の間に流布していった時代だと想像できた。

 私が大学の卒業旅行でイタリア・フィレンツェを訪れたのはもう7年近くも前になるから、今では大分変わったのかもしれないが、記憶にあるのはやはりメディチ家コレクションを集めたウフィッツィ美術館や、イタリア・ルネサンス建築の初めと言われる「花の大聖堂」(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)などの歴史的建築物のディテールを飾る建築装飾であろうか。ミケランジェロ広場から全景を見渡す限り、もう街全体が美術館みたいなノリだった印象がある。

 当時は時間があまり取れなかったので急ぎ足で有名美術館を回らざるを得なかったのだが、今度行けるときがあったらゆっくり見てみたい。そのときは是非、当時読めなかったゲーテやスタンダール、アンデルセンなどの旅行記、それから好きな澁澤龍彦を気取って『アベラシオン』をはじめとしたバルトルシャイティスの4部作(バルトルシャイティスの著作に対する松岡正剛氏の書評はコチラ)などを読んでから行くことにしよう……。
 先にも書いたが、フィレンツェはまさに街全体が美術館のようなつくりをしている。目に留まったもののイコン(図像)と歴史を探り、そこから関連する意味と人物を連想し、文化を理解できるような旅行がしたいものである。

 以前にも日記の中で書いたことがあったが、自分流の美術館の楽しみ方(cf.「各作品の解説の中に見られる画家たちの意図が形を変えて、現在という時空間への流出を図ろうとするとき、僕らは得も言われぬ歓喜、あるいは恍惚の念にしばしば駆られることもある」)ができるのが楽しかったりするのである。

カテゴリー:[ 美術展 ]

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