『神々の詩』(姫神) ~シンセサイザー奏者、星吉昭氏追悼、「誰か故郷を思わざる」~
「もしかしたら、私は憎むほど故郷を愛していたのかもしれない」(『田園に死す』/寺山修司)
3日、姫神のシンセサイザー奏者の星吉昭氏が亡くなられたという訃報を聞き、「縄文語による歌詞」が話題となり以前にテレビ番組でも特集が組まれた代表作『神々の詩』を聴いてみる(試聴はコチラ)。
「姫神」のユニット名の由来は、どうやら、氏の生まれ育った岩手県にある姫神山からとられているそうである。私はこの山のことは知らないが、東北地方の山と聞くと何となく特に神聖なイメージがある。
石川啄木や宮沢賢治、柳田國男の東北文学にはゆかりが深いと思うし、ダンテの『神曲』にしても、トーマス・マンの『魔の山』、武田泰淳の『富士』などにしても、その他ゲーム上に登場する「山」の持つ役割にしても、いずれも神聖的なイメージもしくはシンボルとして登場することが多いと思う。「霊峰」とか「山岳神話」という言葉もあるくらいだし(参考ページ:「いわての山々」)……。
「姫神」の音楽も各曲のタイトルにも現れているし、そんな神聖とか、そういうイメージが似合う曲が多いと思う。私は『森羅万象』しか所有しないが、思えばこの手のイージーリスニング系の曲は幼少時代から好きであった。
同じシンセサイザー奏者の喜多郎や、またオカリナ奏者の宗次郎に至っては、小学校時代に代表作であった『大黄河』をリコーダーで演奏したこともあったので馴染みやすい曲だと思っていた。
『古事記』や『日本書紀』や本居宣長などをはじめ、学生時代に少し学んだ国語学の中で触れた民俗学のような授業の中で、日本には古来より生物や自然などこの世にあるものすべてが、神々が創ったというよりも、神々から生まれたものと考え、全てに生命の息吹が宿っているとして(産霊<むすび>)、山や収穫物などを祝う信仰や祭りなどが未だに地方には多く伝わっていることと思う。
ここで何故か「姫神」と名の似たアーティストを思い出した。「犬神サーカス団」であるが、実はメンバーの何人かが私の高校時代の先輩でありながら、大学時代も軽音楽サークルで一緒だった先輩である。私は途中で音楽を辞めてしまったので、どうした経緯でバンドを結成されたのかは知らないが、その意味深なバンド名には、冒頭で引用した寺山修司を彷彿させるキーワードが二つ含まれている。「犬神」と「サーカス」である。
没後20年以上経つ寺山修司だが、故郷である青森を思う作品を多く書いていたと思うし、先述の石川啄木もまた故郷である岩手の山々をよく題材としたとされる。
また、演劇は文学とは切り離して考えるべきだと考えた寺山修司は、自身の率いる劇団でどのようなものを表現しようとしていたのだろうか?
最近になってなぜか耳にすることが多くなった言葉に「Synchronicity(シンクロニシティ)=共時性」という、ユングの唱えた言葉がある。
寺山修司の後年の作品の解説やエピソードなどを読んでいると、幼少時代の体験にシンクロニシティが働くことによって起こり得る現在の現象を表現していたような気もしてくる。きっと「言葉」だけでは表現し尽くせないものもあっただろうと思われる。
繰り返しになるのかもしれないが、このように自然界にあるもの――殊、山ひとつとってみると、「天」や「太陽」など父性原理を持つ表象に対して、「山」や「大地」は、その逆である母性原理を持つものである。母なる故郷を表現した姫神の音楽には、どの曲に関してもおそらくは星吉昭氏の愛した故郷である東北地方の自然に対する心象風景が多分に含まれているものと思う。
私は故郷を持たないが、東北以外でもいわゆる「故郷」を持つ方にとっては、姫神の音楽に突き動かされて何某かの思いにふけることができるのではないだろうか……。追悼――。
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