「マティス展」(国立西洋美術館) ~絵とはどのように生まれてくるものなのか?~
今日は日曜日だったが、平日よりも早い時間に仕事があり、15時過ぎまで出向先に出向いていた。その帰り、上野の国立西洋美術館で開催中の「マティス展」に立ち寄ってきた。
なんでも今回のマティス展は没後50周年を記念して行われたもので、日本でこのような大規模な展示を行うのは23年ぶりとのことであった。23年前の展覧会はどのようなものだったのだろう?池田満寿夫氏のエッセイに『私のピカソ 私のゴッホ』というものがあり、文中に以下のようなくだりがある――。
東京にピカソ展があった。あれは高校三年の時だったような気がする。(中略)ピカソ展の少し前に開催されたマチス展は、それをわざわざ東京まで観に行っていながら、熱狂はやって来なかったのだから。マチスに対する不理解はこの時から続いているとも言える。
すなわち、1951年に上野で開催されたピカソ・マティス両展についての感想を述べている。これは「23年前」の展示のことを言っているわけではないが、この年に20世紀を代表する二人の画家の作品が日本に初めて同時上陸したようで、当時の日本の美術旋風が想像出来る。
マティスと言うと、ピカソと並ぶ20世紀美術の大家といったイメージがあるが、ひょっとしたらこの1951年時の日本への紹介のされ方が、半世紀という一つのサイクルを経て影響するアンソロジー的要素もあるのかもしれない。
また先の著作の中で池田氏は、「ピカソの伝記を読んでなによりもうらやましいと思ったのは、彼をとりまく交友関係であった。」「青春ピカソの存在がひときわうらやましく見えたのは、これらの詩人たちや、画家たちとの交友関係がなによりも輝かしく見えたからである。」とも書いている。
ピカソを取り巻いた交友関係については、私も以前に同じようにピカソの交友関係筋をたどることによって、他の同時代を生きた偉大な作品の生みの親に出会うことが出来たので、そういった意味でピカソの作品に興味を覚えたものだった。一方でマティスについてはどうだろう?
事実個展ともなるとピカソに関する展覧会へは何度か行ったことがあるものの、マティスに関する展覧会というのは誰かのコレクションや企画展でしか見たことがない。同じ二大画家と言われていても、正式に「マティス展」として私が見ることになるのは確かに今回が初めてであったし、ピカソ作品に比べるとやはり熱狂して観入るようなことはなかった。
しかしそれだけに新しい発見もあった。展示内容のキラーコンセプトとも言える「絵とはどのように生まれてくるものなのか?」という命題。これは後世の人たちがマティスを語る上で用意した言葉かもしれない。この美術の根幹思想とも言える深い哲学のもと、「ヴァリエーション」と「プロセス」という手法を用いてマティスは絵を描いたと言われているそうである。
描くときの感情や感覚を大切にし、同じ主題を何度も描くところ(ヴァリエーション)はモネの連作を代表として印象派のそれと似ているが、そもそもこうした試みは美術界独自の要素であるわけでもない。音楽でも文学でも「ヴァリエーション」はあるし、展示の中で解説のあった「グラッタージュ(引っかき線)」、「ネガティブライン(色面と色面の境界によって作られた線)」、「塗り直しの痕跡」、「重ね塗り」、「輪郭線と色彩面の不一致」などの技法なども、そうした「プロセス」に重きを置いた主題の作品は他にもあると思う。
それでは改めて今回のマティス展の見どころは何だろう?
おそらくは「野獣派(フォーヴィスム)」を代表する荒々しい筆致から生まれる野性的な色彩感覚かとも思う。また、先のプロセス主義な面に注目しても、何度も何度も描き直すという行為(プロセス)が生み出す永遠性も魅力の一つかもしれない。ちょうど先のモネが円形の画廊を、連作「睡蓮」で埋め尽くすことで永遠に続く安堵感を求めたように、被写体の永続的可能性が込められたのかもしれないと思った。
様々な女性の表情をデッサンした「ヴァリエーション」は、自身の習作としても新たな作品を生み出す原動力となったろうが、その後様々な分野に派生したものもあるだろう。
私が絵画を見るときに感じる醍醐味というのは、いつも思う持論だが、一般的な絵画論や美術史も楽しいのだが、自由連想的な発想が許されるということだと思っている。つまり、ある絵画を見たことによって、全く別の何かを生み出す発想の原動力になり得るということである。それは関連の深い文学かもしれないし、あるいは全く別次元にある生き方そのものだったり、仕事や趣味の分野かもしれない。
「絵とはどのように生まれてくるものなのか?」
これは画家の言った言葉である。それでは我々が「○○とはどのように生まれてくるものなのか?」と、自分に置き換えて考えることがあってもおかしくない筈である。そこから様々なオートマティスム、インプロ(ビゼーション)的発想が生まれ、同一の主題に対する試行錯誤や挑戦を続けることによって、より本質(に近いもの)に対峙することができるようになれるのではないか?と考えた。
ただ、この考え方が仮に正しいとして、私自身にこうしたあまりに壮大な探求によって閉塞的な自己完結を結ぶような行為があるとすれば、それは私の理想とすることではない感じがした。
全く飛躍して間違った解釈であるとは思うが、「帰納的」「演繹的」ということで言えば、とかく人は年を経るにつれて、前者の考え方のようにある一つの思想を見出してそこに帰結することが多いように思うが、どちらかというと私はそうしたストイックな考え方よりも、もう少し場当たり的な快楽主義に近い考え方に興味を覚えているような気がする。
カテゴリー:美術展