世界の中心で愛を叫んだけもの ――『廃墟大全』、『廃墟の美学』について
最近は、第何次廃墟ブームと言うのか、殊に「廃墟」がブームのようである。
自分も行くことのあるコミュニティサイト内でも専用のトピックが立ち上がるなど、私自身は行ったことはないけれども、長崎県にある島全体が廃墟化している「軍艦島」や、90年代になって取り壊された香港の「九龍城砦」の写真集などについて、話が盛り上がっている。
自分にとっての「廃墟」の印象は?と聞かれても、あまりそうしたものを見かけるケースは多くないので返答に窮する。なので、もう7年くらいも前のことになるが、大学の卒業旅行で訪れたイタリアはローマで見たコロッセウムやフォロ・ロマーノなどが、いわゆる廃墟のようなものだなと感じるくらいであった。
かつて読んだ『幻想の地誌学―空想旅行文学渉猟』(筑摩書房)などを書いている、私の好きな作家でもある谷川渥氏の著作に、『廃墟大全』(トレヴィル、中央公論新社)や、『廃墟の美学』(集英社)というものがある。
廃墟というのは、過去のもので言えば何世紀もの歳月をかけて廃墟化したとか、戦争や災害などによって一夜のうちに滅ぼされたとか、先の本の中の言葉を借りて言えば、廃墟を構成するものは大きく「時の仕業」と「人の仕業」とに大別される。
こうした様を描写した画家や写真家も多く、代表的な画家の中では、クロード・ロラン、ユベール・ロベール、モンス・デジデリオ、(ジョバンニ・バティスタ・)ピラネージなどがよく聞く名前である。俗に「廃墟画派(ルイニスティ)」と呼ばれる18世紀末のイタリアで興った作風の系統などである。
不思議とこうした絵画を眺めていると、アニメやゲームにも通づるその非日常性の時空間を醸した世界観に自身の想像力を掻き立てられたりなどして見とれてしまうことは誰しもにあると思うのだが、そうした嗜好はもしかしたら本来は日本人であれば多くの者が有する共通感覚なのかもしれないと思うまでになった。
「諸行無常の響きあり」とそんな無常観を謳った者もいれば、春の桜の散り方に風情を感じる者もいる。華やかさや艶やかさが、極限られた期限をもって終息に至る過程が日本人の歴史の中では、様々な修辞や芸術で表現されてきている。
廃墟も同様に「崩壊」や「終末」、「無人」など、およそ廃墟に至るまでの過程の中に、そうした無常観をもって見ることができるかもしれない。
『廃墟大全』の中で、あの人気アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』に言及した解説のようなものが収められている。
この『新世紀エヴァンゲリオン』については、テレビ番組やアニメに疎い私でさえ名前を知っているし、数年前にテレビ東京の再放送版で4夜連続で放映されたときには、友人の薦めもあり毎晩タイムリーに見ていた覚えがあるほどだし、賛否分かれる劇場版も見に行った覚えがある。
このアニメの制作は、あのガイナックスである。ガイナックスと言えば知る人ぞ知る会社なのだろうが、私も先日別の日記で創設者である岡田斗司夫氏について触れたばかりだった。ちなみにガイナックスは今年で創設20周年を迎えるとのことで、様々なキャンペーンを行っているようである。
『廃墟大全』の中で、この奇妙奇天烈なラストを迎えた『新世紀エヴァンゲリオン』について、『GUNDAM CENTURY』などを書いた永瀬唯氏が言及する、「伝道」または「福音」を意味する「エヴァンゲリオン」の物語の中で執拗に語られる独特なキーワード――、すなわち「人類補完計画」「使徒」「死海文書」「アダム」「セカンド・インパクト」などの専門用語や、身近な存在感を醸し出す主人公碇シンジの内面へと掘り下げてゆく心理状況をダブらせながら展開する物語構成などに、私も当時多くの疑問とともに強い興味がわいたものだった。
永瀬氏は、『新世紀エヴァンゲリオン』TV版最終回のタイトル、『世界の中心でアイを叫んだけもの』が着想を得たオリジナル本は、ハーラン・エリスンという作家のSF短編、『世界の中心で愛を叫んだけもの』だと断言する。謎の組織「ネルフ」、「ゼーレ」といった存在、そして地下深くに保存された巨人アダムと、その体を貫くロンギヌスの槍についてを触れ、「大きな物語にまつわる謎やら小道具やらのラッシュ・アワーと、自己救済にまつわる主人公の独白がサンドイッチ構造となったまま、物語は進行してゆく」という見解に至り、それから明るく元気なキャラクターの惣流・アスカ・ラングレーの自虐的かつ狂気的行動や、水槽に浮かぶ無数の綾波レイの姿などを通して、そこに廃墟的様相を見、また自己救済と世界終末とを結びつけてゆく展開をグノーシス主義に結びつけて考えていく試みがあったところが面白いなと感じた。
こうしたある種異端的な主義・思想・オカルティックな物語の誕生の仕方としては、昨今話題となった『イノセンス』(cf.「イノセンス・都市の情景展(森都市未来研究所)」)や、「球体関節人形展」などに通づるものがあるのかもしれないと思った。
最近ではこうしたオリジナルのテクストから影響を受けたと思われるアニメ作品が増えていると聞く。それはもしかしたら、昨今の絶え間ない戦争の繰り返し、言わば人類の闘争の歴史に文明の行き詰まりを予測した警鐘のようでもあり、ネット上で呼びかける集団自殺のような、グノーシス主義者風に言うところの「悪の宇宙」を構成する行為などが、逆にそうした作品を生むきっかけとなっているのかもしれないと思った。
そういった終末的思想が、どことなく廃墟ブームへと繋がっていっているのではないか?つまり、滅びゆく文明の姿こそに真の美を感じるといったような特異な感情が一般の人の中にも芽生え始めてきているというか……。
遺跡だ廃墟だと言いながらも、実は私たちはつい3年程前にも大きな廃墟というか、哀しい鉄の残骸を見せ付けられているのである(cf.「凄惨な対米同時多発テロ事件から1年……。」)。
これは論理を飛躍して言えば、インターネット上の情報などに対しても言えるかと思う。言葉の残骸が多数眠る共同墓地のようでもある。
もはや「廃墟」は、最も身近な存在となって私たちの目の前にあるのである。
最後に、ワンダーランドを書く作家、荒俣宏氏の「廃墟は常に「できたての廃墟」として生まれ出る」という言葉が帯に書かれた、『万―懐古文化綜合誌 (臨時増刊号)』(ゆとり文化研究所愚童學舎)で、博覧強記の作家、高山宏氏の寄稿した興味深い記事(「十八世紀末廃墟庭園・絵画論 廃墟のパラドキシア」)が読めることを加筆しておくことにする。
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