印刷博物館「現代ブックデザイン考」で、デジタルコンテンツの未来を想う。
※旧「楽天広場」時代のブログより転載。
昨日土曜日は、急遽お休みをいただき家でのんびりできた。その代わりというか、今日は朝から午後14時過ぎまで仕事。その足で、文京区小石川にある「印刷博物館」(凸版印刷株式会社)に行ってきた。
私は最近では、ものすごく気の向いたときに少し本を読む程度になってしまったが、中学から大学時代にかけては読書が一番の趣味であった。今は仕事……(笑)?
中学3年生のときに生まれて初めて神田・神保町で毎秋開催されている古本まつりに赴いたときは文字通り大きなカルチャーショックを受けたものであった。それ以来というもの、出不精な私を毎年足を向かわせる程の影響力を持っている。その「古本」だが、好きな人は好き、嫌いな人は嫌いだと思う。古本の魅力は、チェーン展開する大型古書店(リサイクルショップ?)が台頭したり、オークション人気に火がついた今となってはある程度薄らいでしまったのかもしれないが、非常に味のある本に出会えることだと思う。何がその味を醸し出しているかというと、まるで過去の宝物を包むかのようなパラフィン紙なのか、本を開いたときの独特の日向臭い匂いなのか人それぞれ感じる部分は違うと思うが、要素の一つに「装丁(幀)美」というものもあるかもしれない。book design、ルリュール(仏)、視点によって呼び方を変える人もいるかもしれない。いずれにしても、装丁は製本・印刷技術の極みと言えるかと思う。また、『別冊宝島』の表紙のオブジェを創ってきた人形作家野崎一人氏のように、「とにかく参加した本をできるだけ売りたい」という視点に立ったこだわりを装丁に表現するような方もいらっしゃるのである。
私も先の古本好きや、好きな澁澤龍彦関連の影響もあって、堀内誠一、野中ユリ、まりのるうにいetc……といったような装丁作家が好きだったことがある。広義でアートディレクターとくくれば、『暮しの手帖』の花森安治氏や、マガジンハウスの発行物を多く手掛ける新谷雅弘氏、最近では戸田ツトム氏等も含む。
本日立ち寄った「現代ブックデザイン考」では、そういった装丁デザインのいろいろを展示してあった。
装丁の状態を擬態語でカテゴライズして、「スケスケ」「ふわふわ」「軽い」「でこぼこ」「穴あき」「きらきら、ピカピカ」などと本が分けられてあり、子供も楽しめるような仕掛けがあった。渦中の『バトル・ロワイヤル』の単行本もあった。
私が目を留めたのは、自分のオススメ本として『タルホ事典』といったような著書も紹介してある稲垣足穂の本であった。
それは、工作舎から刊行されていた『人間人形時代』という著書である。表紙に穴をあけた本はときどき見かけるが、この本はなんと、裏まで穴(直径7ミリ、杉浦康平氏作)が貫通してあるという凝り様で、今の時代にそうした本を出版するような出版社はもうないかもしれない。なぜかと言うに、最近では「良いものは良い、悪いものは悪い」と開きなおったかのように他社の良い企画に飛び乗り、食玩ブームも頭に入れてか、オリジナルグッズであるのかもしれないが、ポーチだ、傘だ、といかにお得感を出すためか知らないが、オマケが過剰過ぎる出版物も目立ち始め、もはや誌面を読ませたいのか、オマケを買わせたいのか区別のつかない雑誌も多く見かけるようになった。まるでちょうど一昔前、私の小学校時代に流行った「ビックリマンチョコレート」のシールだけを抜き取って、中身のお菓子を捨てるブルジョア少年のように、可愛らしいオマケのついた雑誌を複数冊買っては、書店の前のゴミ箱に雑誌を捨てて帰る読者までいると聞く。ハタから見れば本末転倒に見えるが、売る側にとってみれば、結果として良いこととされているのかもしれないが、過去に長い文化を持つ出版文化を考えると私にはどうも好きになれない。
奇抜で目立つ、というのも確かに書物として重要なことなのかもしれないが、もちろん本の魅力は装丁だけではない。あくまでも中身が面白くなければ長くは読まれないと思う。それでも、装丁に寄せる想いには特別なものがあり、復刊などで表紙のデザインの変わってしまった(例えば岩波文庫などの)本などは、何となく味気なく感じることもある。
話が飛び飛びになってしまっているが、この展覧会では、その他様々な様相の装丁を持つ書物が、そう多くはないまでも確固としたコンセプトワーク別に展示されていた。
他にも地下にある常設展示は、実は初めて観覧したのだが非常に興味深かった。「科学万博-つくば’85」では、印刷博物館の館長である粟津潔氏がテーマ館展示の基本計画設計をされたというが、このブースでは単なる印刷やブックデザインという切り口だけでなく、時代を経る毎に進化してゆく印刷の歴史の表現方法や、実際参加して「体験」するという行為を交えた、大きな年表のスクリーンを前にした印刷における一大パノラマ史を観客に見せようとしているかのようにも受け取れた。
ラスコーの壁画に始まり、パピルスの誕生、そしてルネサンスの三大発明の一つであるグーテンベルクの活版印刷を経由し、現代のDTP技術などへブースを進むごとに人類のたどった足跡を追いかけられるような館内のつくりになっている。とどめは現代技術を駆使したかのような3Dシュミレータ装置「VRシアター」である。私が訪れた日には、京都の二条城を見学することができた。
先ほどルネサンスの三大発明と書いたが、三大発明とはよく言ったもので、歴史を見返せば先の活版印刷によってルターのドイツ語訳『新訳聖書』や、ディドロとダランベールが中心となり、ルソー、モンテスキュー、ヴォルテールなどが執筆・編纂にあたったという、またフランス革命の引き金にもなったという知識層を生み出した18世紀フランスにおける最大の出版物であった『百科全書』などが誕生したのも、そして我が国日本でも医学の進歩をもたらした杉田玄白の『解体新書』などが生まれ、印刷技術の向上が書物の誕生・流布を大きく促し、人々に知識の大幅な進歩をもたらしたとも言える。
ただ、ある意味私たちの生きた20世紀も、よくよく考えれば1901年のノーベル賞創設に始まり、戦争と発明の世紀だったと言えなくもない。後世になって顧みれば、パソコンは20世紀の三大発明と言われているかもしれない。ただ、そのパソコン(インターネット)も心ない人、悪意を持った人、もしくはきちんとした使い方を知らない人、一部のそうした人が使うことによって事件にまで発展するような世の中になった。
それから、1903年のライト兄弟のフライトを考えると飛行機もその一つに選ばれるかもしれないが、より良い発明は往々にして戦争にも使われることが多い。また日本における自動車の普及も、スピードや剛健さといった部分に機械崇拝の風潮をもたらしたが、現代では営利追求がゆき過ぎてリコール問題などにまで発展し、19世紀末にジュール・ヴェルヌやジュール・シェレなどが小説やポスターで描いた夢の世界の裏に潜んだ科学罪悪論のような後ろめたさも隠れており、明るい未来のための創造物が、逆に未来に対する不安を映す鏡になっていやしないか?といったアンチテーゼも生まれ、そうした不安を題材にしたアニメまで登場するようになった。
cf.「押井守監修『イノセンス』公開記念 「球体関節人形展」を見てきました!」
印刷の誕生から、昨今のデジタルコンテンツの流行――。
過去の歴史的な美術品もデジタルでよみがえるような技術が生まれたが、果たして今まで随分と長い間、人類の歴史に関わってきた紙の書物は今後なくなることはあるのだろうか?
もちろん、保存が効かないといわれれば、紙の方が寿命が短いような気もするが、再生するハードの問題を考えれば長い目で見て紙もCDもそんなに違いはないような気もする。それからどうしても、「ページをクリックして見る」行為では、「ページをめくって見る」という行為に及ばない部分もある。そういったところから、実際にアナログコンテンツがすぐに消え去ることは決してないのだが、むしろ昨今はデジタルコンテンツの功罪がとかく叫ばれる世の中になった気もしなくもない。
今日は、久し振りの展覧会に赴き、いろんな思いが錯綜したものである。
カテゴリー:美術展