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2004年06月27日

新札発行の『夜明け前』(島崎藤村) ~真実はすべて闇の中~

 今、ヤフーなどで調べてみても、今秋を予定している新紙幣発行のニュースに関する記事が盛んである。

 なにしろ20年ぶりのことである。前にどこかのニュース番組か何かで、聖徳太子の一万円札が最も一万円札らしいというイメージを持つ人が多いという統計のようなものを出していたが、そもそも「お札」の成り立ちを考えると(学研のひみつシリーズの一つ『お金のひみつ 55』で読んだ知識くらいしかないが)本格的に庶民に使われるようになったのは江戸時代に入ってからのようで、出始めの頃は信頼をもらうまでに大変だったと読み覚えている。

 私たちの生きた時代にも新紙幣の発行はなされ、幼少時代は「新渡戸稲造って誰?」とか思っていたりもしたが、『武士道』などの著作のある著名な方であると後年(学生時代、アンドレ・マルローを読まされたり、『菊と刀』についての論文を書かされたり、『日本人とユダヤ人』(イザヤ・ベンダサン著)と『ヴェニスの商人』(シェイクスピア著)について書いたりしたものだが、その過程)になって初めて知ったが、今でもまだ読めてはいない。

 そんな新紙幣が国民の信頼を得るのにどれだけ大変だったかは、今の二千円札が信頼をもらうよりずっと難しかったと例えれば分かりやすいかもしれない。なにしろそれ以前は、金や銀など最悪それがお金でなくなっても何とかなりそうな代物ならともかく、紙をお金の代わりとする文化はなかったのだから。

 今回のタイトルにも使った『夜明け前』は、「木曾路はすべて山の中である。」という冒頭があまりにも有名な、島崎藤村の傑作長編小説から採った。文庫でも2巻に渡るので未だに読んでいないのだが。この小説が連載小説として発表された昭和4年、その年は先日も触れた『ツェッペリン飛行船』/柘植久慶(中央公論新社)の中で描かれたツェッペリン飛行船が来日した年だが、世界的に見れば昭和4年、つまり1929年と言えば、ニューヨーク株式が大暴落したことによって起こった世界大恐慌の年でもあった。数年後にフランクリン・ルーズベルトによって実施されたニューディール政策は、その世界恐慌を救うための政策だったとされる。また、公共事業の拡大で失業者に職を与え大企業や銀行を援助したと歴史の教科書などには説明がある。
 一見、今の日本の負債額などを見ると、日本大恐慌ではないのか?とか思ってしまいそうなのだが、今の日本にもこのような政策が準備されているのだろうか?

 先の『夜明け前』で、主人公の青山半蔵は、著者藤村の実父にあたる人と言われている。本居宣長らとともに国学の四大人の一人と言われる平田篤胤の先師没後の門人として学ぶ憂国の士、半蔵の心の成長(世直し・革命心、幕府への疑問、王政復古の念etc……)を描きながら、冒頭に説明があるように、木曽路(岐阜県)を舞台として、鎖国以来、「その国のおきてを無視して、故意にもそれを破ろうとするものがまっしぐらにあの江戸湾を望んで直進して来た」と作中に書かれたペリー提督率いる黒船が浦賀沖に来航して開国を迫った1853年7月8日の日のことを、酒の空壜や、籐椅子、寝椅子など、当たり前のものが漂着しても不思議がったという日本人の無知を書き、また作中で「生麦事件とは何か。これは意外に大きな外国関係のつまずきを引き起こした東海道筋での出来事である。」と語られている生麦事件(1862年)、幕政から天皇制へと、最後の将軍徳川慶喜による大政奉還(1867年)、そして私も2003年の夏休みに訪れた鶴ヶ城(会津若松城)で見た「白虎隊」の大河ドラマでもおなじみの鳥羽・伏見の戦いや戊辰戦争(1868年)についての周辺、「尊王攘夷は実にこの討幕運動の旗じるしだ。これは王室の衰微を嘆き幕府の専横を憤る烈しい反抗心から生まれたもので、その出発点においてまじりけのあったものではない。その計画としては攘夷と討幕との一致結合を謀り、攘夷の名によって幕府の破壊に突進しようとするものである。あの水戸藩士、藤田東湖、戸田蓬軒らの率先して唱え初めた尊王攘夷は、幾多の屈折を経て、とうとうこの実行運動にまで来た。」などの国民の動きを遠くに伝え聞きながら、明治維新、文明開化まで移り変わってゆく日本の近代化までの、つまり「夜明け前」を何とも巧く綴っているのである。

 ここから先の日本の歴史上で言えば、多くの人が興味を抱く明治維新の話になってくるかと思うが、この作品はまさに、「夜明け前」までのストーリーなのである。

 明治維新については、私はそんなに読んだことはないのだが、城山三郎氏の『雄気堂々』をレコメンドしておこうと思う。新撰組や彰義隊の話、一橋(徳川)慶喜の話などを楽しく読むことが出来る一冊である。

 以上のことから、こじつけかもしれないが現代の「憂国、平成世直し的風潮」が高まる中、今秋の新札発行によって、日本経済がどのように変化してゆくのか、今の時期はまさにその「夜明け前」くらいの季節なのかな?などと思ったので、こんなタイトルにしてみた。駄洒落である。

■【参考サイト】近現代・日本のお金
http://chigasakioows.cool.ne.jp/

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2004年06月20日

『BRUTUS さあ、ブックハンティングの季節です!』を読みました。 <後編> ~スイス時計業界の新星フランク・ミュラー~

※旧「楽天広場」時代のブログより転載。

 昨日の続きと言えるかと思うので<後編>ということにするが、中面にあった綴じ込みの記事の中に、一瞬おやっ?という内容のものを見つけた。

 それは木村拓哉さんも愛用すると聞いた、フランク・ミュラーの時計に関する記事であった。

 以前、私もここの日記で、「20代のうちにフランク・ミュラーの時計を買おう!」と思ったことを書いたこともあったが、前言撤回ということで……(笑)。

 今まで社泊やなんだで、19日の夜になってからこの日の日記を書いているのだが、メルマガで入ってきたネットプライス運営のギャザリングによるネットショッピングの情報でも、結構高価なので、できれば30代のうちには買いたいと……(爆)。

 そんな、単なる「スイス製高級腕時計」というだけでなく、ナポレオンの妻であるジョゼフィーヌが使い始めたのが最初と言われる腕時計。実は誕生から正味1900年に入ってからというもの100年と少ししか経っていないという腕時計史の歴史的事実がある中、「社歴100年以上の名門ブランドがゴロゴロひしめくスイス時計界にあって、彼が起こした会社は、91年の立ち上げかららわずか10年足らずで、最高峰ブランドの仲間入りを果たした」と書かれたフランク・ミュラーの時計を作っていた、フランク・ミュラー氏その人自身が、自らその自身の会社を離れたというニュースが、地元ジュネーヴでは話題になっているという記事であった。

cf.「スイス時計業界図

 共同創業者兼共同経営者である、ヴァルタン・シルマケス氏との取締役会における不和が元となり、確執が生まれたというのである。

 それにしても、自身の名前自体がブランド名となっているのに、離れる、つまり会社を辞めてしまったら、この名門ブランドの未来はどうなっちゃうの???という感じである。

 『BRUTUS』の記事の中では、「フランク・ミュラーという名は当然私に帰属する。もしそうでないというなら、私の名前は、私なしでどうなるというのだ……」というフランク・ミュラー氏の発言に対し、「一番大切なのは名前ではない。フランク・ミュラーという名前の人はたくさんいる」とヴァルタン・シルマケス氏の発言が書かれてある。

 以前の日記の中で「ブランド」に対する思いを書いたことがあったが、ブランド名というのは、個人としてもそうだが、企業としてはとても大切なものだと思う。

 そうした意味で、先の双方の意見を総合して考えると、フランク・ミュラー氏が次に起こすであろう会社が「フランク・ミュラー」の名前を使って時計を製造・販売し、ヴァルタン・シルマケス氏は今の会社でその名前を使わなければいいだけなんじゃないの?とか単純に思ってしまった。詳細な経緯が分からないのだが、これからどうなってしまうのだろう?

 既に今までも多くの時計特集などを組んできた『BRUTUS』での記事。現にかつて『日本人はブランドでしか時計を選べないのか?(2000年6/1号)』という特集のものを発行している。そんな『BRUTUS』側の見解はいかがなものだろうか。今後の動向に注目である。

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2004年06月18日

『BRUTUS さあ、ブックハンティングの季節です!』を読みました。 <前編> ~新興書店の発信する新しいコンセプト~

※旧「楽天広場」時代のブログより転載。

 マガジンハウスから出ているBRUTUSという雑誌。実は結構前から好きで、未だに捨てられない『BRUTUS』が本棚に収まりきらず、別のラックの一列を占領している(笑)。

 今日の外出用に、最新号の「さあ、ブックハンティングの季節です!」特集を買った。この楽天内のページにも、好きな雑誌のラインナップ(※1)のようなものを書いたことがあった。また、オススメ本としても挙げている昭和の企業を書いた大宅壮一氏の言葉にある「本は読むものではなく、引くものだよ」の言葉通り、最新号を心ゆくまで読んだ後は、ある種辞書のような役割を果たしながら自分の本棚に並ぶようになっていったりする。

cf.「大宅壮一文庫
※雑誌の中にこそ、実は貴重な情報が眠っていると収集を続けた大宅壮一の雑誌専門図書館のサイト。

 以前の特集であった『雑誌好きなもので!(2003年9/1号)』もヴィンテージ系の雑誌や書店ばかりが出ていたものの、そこそこ楽しめたし、後述の「ユトレヒト」や「NADiff(前身はあのセゾン文化の真髄「アールヴィヴァン(1996.5.22.閉店)」)」などの書店を特集した『新しいスタイルの「本屋」が気になる!』なども同様に面白かった。

 今号の特集名にある「ブックハンティング」。何だか「本の狩猟」という意味みたいで大げさに感じる人もいると思うのだが、本好きの人にとっては大型書店やマニアックな古書店で棚の一列一列を血眼になりながら、ついに探しあぐねていた本に出会ったときには、まさに身体が震えるくらいの感動を覚えるようなこともあることかと思う。

 新興の書店は実におしゃれなコンセプトの元に開業されている。特集にあった「旅の本屋:BOOK246」という書店は青山1丁目にあるようだが、私はまだ行ったことがない。誌面には、設立のきっかけとなっているという、総合プロデューサーのルーカスB・B氏のことが書かれてあった。「地上で読む機内誌」と評される『PAPER SKY』という雑誌を創刊させた人らしい。

 この雑誌の内容は実際に見たことがないので想像になるが、いわゆる飛行機などの交通機関に置いてある、例えば誰かに聞いたのだが、密かにベストセラーと言われる全日空の機内誌『翼の王国』に似たようなものなのかなと想像している。

 そんな実績を持つルーカス氏が、以前の日記でも軽く触れた代官山の新興書店「ユトレヒト」の店主、江口宏志氏らと組んでオープンさせたのが、ここ「BOOK246」という書店らしい。

 そのほか、アルファベットの「K」ではじまる地域(倉敷、軽井沢、金沢、京都、神田)には、味のある書店が多く存在する!?という切り口で、全国のブックハントの対象になり得る地域を周るという企画は大変面白かった。

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2004年06月13日

印刷博物館「現代ブックデザイン考」で、デジタルコンテンツの未来を想う。

※旧「楽天広場」時代のブログより転載。

 昨日土曜日は、急遽お休みをいただき家でのんびりできた。その代わりというか、今日は朝から午後14時過ぎまで仕事。その足で、文京区小石川にある「印刷博物館」(凸版印刷株式会社)に行ってきた。

 私は最近では、ものすごく気の向いたときに少し本を読む程度になってしまったが、中学から大学時代にかけては読書が一番の趣味であった。今は仕事……(笑)?

 中学3年生のときに生まれて初めて神田・神保町で毎秋開催されている古本まつりに赴いたときは文字通り大きなカルチャーショックを受けたものであった。それ以来というもの、出不精な私を毎年足を向かわせる程の影響力を持っている。その「古本」だが、好きな人は好き、嫌いな人は嫌いだと思う。古本の魅力は、チェーン展開する大型古書店(リサイクルショップ?)が台頭したり、オークション人気に火がついた今となってはある程度薄らいでしまったのかもしれないが、非常に味のある本に出会えることだと思う。何がその味を醸し出しているかというと、まるで過去の宝物を包むかのようなパラフィン紙なのか、本を開いたときの独特の日向臭い匂いなのか人それぞれ感じる部分は違うと思うが、要素の一つに「装丁(幀)美」というものもあるかもしれない。book designルリュール(仏)、視点によって呼び方を変える人もいるかもしれない。いずれにしても、装丁は製本・印刷技術の極みと言えるかと思う。また、『別冊宝島』の表紙のオブジェを創ってきた人形作家野崎一人氏のように、「とにかく参加した本をできるだけ売りたい」という視点に立ったこだわりを装丁に表現するような方もいらっしゃるのである。

 私も先の古本好きや、好きな澁澤龍彦関連の影響もあって、堀内誠一、野中ユリ、まりのるうにいetc……といったような装丁作家が好きだったことがある。広義でアートディレクターとくくれば、『暮しの手帖』の花森安治氏や、マガジンハウスの発行物を多く手掛ける新谷雅弘氏、最近では戸田ツトム氏等も含む。

 本日立ち寄った現代ブックデザイン考では、そういった装丁デザインのいろいろを展示してあった。
 装丁の状態を擬態語でカテゴライズして、「スケスケ」「ふわふわ」「軽い」「でこぼこ」「穴あき」「きらきら、ピカピカ」などと本が分けられてあり、子供も楽しめるような仕掛けがあった。渦中の『バトル・ロワイヤル』の単行本もあった。

 私が目を留めたのは、自分のオススメ本として『タルホ事典』といったような著書も紹介してある稲垣足穂の本であった。
 それは、工作舎から刊行されていた『人間人形時代』という著書である。表紙に穴をあけた本はときどき見かけるが、この本はなんと、裏まで穴(直径7ミリ、杉浦康平氏作)が貫通してあるという凝り様で、今の時代にそうした本を出版するような出版社はもうないかもしれない。なぜかと言うに、最近では「良いものは良い、悪いものは悪い」と開きなおったかのように他社の良い企画に飛び乗り、食玩ブームも頭に入れてか、オリジナルグッズであるのかもしれないが、ポーチだ、傘だ、といかにお得感を出すためか知らないが、オマケが過剰過ぎる出版物も目立ち始め、もはや誌面を読ませたいのか、オマケを買わせたいのか区別のつかない雑誌も多く見かけるようになった。まるでちょうど一昔前、私の小学校時代に流行った「ビックリマンチョコレート」のシールだけを抜き取って、中身のお菓子を捨てるブルジョア少年のように、可愛らしいオマケのついた雑誌を複数冊買っては、書店の前のゴミ箱に雑誌を捨てて帰る読者までいると聞く。ハタから見れば本末転倒に見えるが、売る側にとってみれば、結果として良いこととされているのかもしれないが、過去に長い文化を持つ出版文化を考えると私にはどうも好きになれない。

 奇抜で目立つ、というのも確かに書物として重要なことなのかもしれないが、もちろん本の魅力は装丁だけではない。あくまでも中身が面白くなければ長くは読まれないと思う。それでも、装丁に寄せる想いには特別なものがあり、復刊などで表紙のデザインの変わってしまった(例えば岩波文庫などの)本などは、何となく味気なく感じることもある。

 話が飛び飛びになってしまっているが、この展覧会では、その他様々な様相の装丁を持つ書物が、そう多くはないまでも確固としたコンセプトワーク別に展示されていた。
 他にも地下にある常設展示は、実は初めて観覧したのだが非常に興味深かった。「科学万博-つくば’85」では、印刷博物館の館長である粟津潔氏がテーマ館展示の基本計画設計をされたというが、このブースでは単なる印刷やブックデザインという切り口だけでなく、時代を経る毎に進化してゆく印刷の歴史の表現方法や、実際参加して「体験」するという行為を交えた、大きな年表のスクリーンを前にした印刷における一大パノラマ史を観客に見せようとしているかのようにも受け取れた。

 ラスコーの壁画に始まり、パピルスの誕生、そしてルネサンスの三大発明の一つであるグーテンベルクの活版印刷を経由し、現代のDTP技術などへブースを進むごとに人類のたどった足跡を追いかけられるような館内のつくりになっている。とどめは現代技術を駆使したかのような3Dシュミレータ装置「VRシアター」である。私が訪れた日には、京都の二条城を見学することができた。

 先ほどルネサンスの三大発明と書いたが、三大発明とはよく言ったもので、歴史を見返せば先の活版印刷によってルターのドイツ語訳『新訳聖書』や、ディドロとダランベールが中心となり、ルソー、モンテスキュー、ヴォルテールなどが執筆・編纂にあたったという、またフランス革命の引き金にもなったという知識層を生み出した18世紀フランスにおける最大の出版物であった『百科全書』などが誕生したのも、そして我が国日本でも医学の進歩をもたらした杉田玄白の『解体新書』などが生まれ、印刷技術の向上が書物の誕生・流布を大きく促し、人々に知識の大幅な進歩をもたらしたとも言える。

 ただ、ある意味私たちの生きた20世紀も、よくよく考えれば1901年のノーベル賞創設に始まり、戦争と発明の世紀だったと言えなくもない。後世になって顧みれば、パソコンは20世紀の三大発明と言われているかもしれない。ただ、そのパソコン(インターネット)も心ない人、悪意を持った人、もしくはきちんとした使い方を知らない人、一部のそうした人が使うことによって事件にまで発展するような世の中になった。

 それから、1903年のライト兄弟のフライトを考えると飛行機もその一つに選ばれるかもしれないが、より良い発明は往々にして戦争にも使われることが多い。また日本における自動車の普及も、スピードや剛健さといった部分に機械崇拝の風潮をもたらしたが、現代では営利追求がゆき過ぎてリコール問題などにまで発展し、19世紀末にジュール・ヴェルヌジュール・シェレなどが小説やポスターで描いた夢の世界の裏に潜んだ科学罪悪論のような後ろめたさも隠れており、明るい未来のための創造物が、逆に未来に対する不安を映す鏡になっていやしないか?といったアンチテーゼも生まれ、そうした不安を題材にしたアニメまで登場するようになった。

cf.「押井守監修『イノセンス』公開記念 「球体関節人形展」を見てきました!

 印刷の誕生から、昨今のデジタルコンテンツの流行――。
過去の歴史的な美術品もデジタルでよみがえるような技術が生まれたが、果たして今まで随分と長い間、人類の歴史に関わってきた紙の書物は今後なくなることはあるのだろうか?
 もちろん、保存が効かないといわれれば、紙の方が寿命が短いような気もするが、再生するハードの問題を考えれば長い目で見て紙もCDもそんなに違いはないような気もする。それからどうしても、「ページをクリックして見る」行為では、「ページをめくって見る」という行為に及ばない部分もある。そういったところから、実際にアナログコンテンツがすぐに消え去ることは決してないのだが、むしろ昨今はデジタルコンテンツの功罪がとかく叫ばれる世の中になった気もしなくもない。
 今日は、久し振りの展覧会に赴き、いろんな思いが錯綜したものである。

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2004年06月12日

『海賊の歴史 カリブ海、地中海、アジアの海まで』

 昨日の日記でイギリスのことについて書いた際、なぜかふと「海賊」を連想し、以前に読んだ海賊の歴史 カリブ海、地中海、アジアの海までという本を思い出した。

 実はこの本、類似した内容の本に図説 海賊大全というのがあって、そっちは定価4725円と高価で買えなかったため、甘んじて買った本である(笑)。リブロポートから出ていた『海賊の世界史』(絶版)にしても同様である。ところが読み始めてみると結構面白い。

 この本は、創元社から刊行の始まった「知の再発見双書」シリーズの一冊である。出版社のページには、「フランスのガリマール社最大のプロジェクト「ガリマール発見双書」を原本とし、歴史、考古学、音楽、科学など人類の「知の遺産」を豊富なカラー図版とともに、解説。」と解説があった。これまでにも他の出版社がこうしたエンサイクロペディア風、叢書(アンソロジー)的な企画刊行物は多数出していたかとは思うが、カラー図版が入っていながら、大きさも値段も手頃な新書サイズというのが読者としては嬉しい。

 内容の方は、副題の「カリブ海、地中海、アジアの海まで」が示す通り、実在した古今東西様々な海賊たちについての言われが書かれている。

 ディズニーランドの「カリブの海賊」が子供の頃、ディズニーランドで一番好きなアトラクションだったと記憶しているが、映画やおもちゃにもなった「黒ひげ」のモデル?であるカリブの海賊エドワード・ティーチ、そのキャラクターや相関関係の面白さから劇などでテーマにも選ばれることも多いと思うイギリスの女海賊メアリ・リードとアン・ボニーについての逸話、キャプテン・キッドことウイリアム・キッドはもともと海賊討伐のために派遣された人物だが後に自らが海賊行為を行うようになったという、まさにミイラ捕りがミイラになるような話、漫画やテレビアニメやゲームにもなった人気の『ONE PIECE』に登場するキャラクターのモデルとなった人物――、フランシス(フランソワ)・ロロノアや、ヘンリー・モーガンについて等、興味深い言及が、それほど難しくならない程度に紹介されており、平易に読みきることができる本であった。

 そういえば先の『ONE PIECE』の作者、尾田栄一郎氏の書いた文章が漫画の巻末か何かに書かれてあったのだが、幼少時代に親しんだという小さなバイキング ビッケは、私も小さな頃見ていたことがあったし、海賊たちが暗躍した「大航海時代」のネタに関してはゲーム(スーファミ時代だが)などでも楽しんだものだ。大体にして「海賊」と言うと、ユトレヒト条約云々ではなく、とにかく殺人や略奪や放火など犯罪であることはもちろんだが、山賊よりも残忍な恐くて悪い人たちというイメージがあるが、同時に世界史上に登場する海賊、そして実在はしないけれども物語中に登場した海賊、彼らが宝の地図を元にかつての伝説の海賊たちが世界中から集めた宝物を隠した海の孤島を求めるという一般的な物語のモチーフには冒険小説の定義の一つとしては当然のこと、他にもユートピア小説としての要素もあるかと思う。また、「かつての海賊が集めた宝物を求める」というところにある種の円環構造があり、タイムカプセル的ループを想像させる作中作の物語の構成に一層のワクワク感のようなものも芽生えてきてならない。

 物語の中における海賊の登場、そして彼らの演じた役割は構成面から見ても重要で、スティーヴンスンの宝島で描かれるシルヴァー船長の特徴である義足の風貌、海賊ではないが私掠の歴史的側面、または博物学的見地から見ても楽しめるかつては小説や映画で興奮しながら見ていた白鯨(cf. http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0300.html )で、海の怪物モービー・ディックに足をかみちぎられたエイハブ船長の異様なまでの復讐心など、キャラクターの風貌や性格、船や食べ物の描写、船員(海賊)たちの間での規則や反乱意識へ転じる流れなど、物語の醍醐味をもたらす要素となるケースが多いと思う。私自身は、以前にも「過去の冒険小説には「夢」や「教養」があった。」に書いたように、そうした「冒険小説」の中の系譜の一つとして「海賊」というキャラクターに興味を持った。

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投稿者 cyberpoet : 23:29 | コメント (0) | トラックバック (0)