『詩の朗読会 フランス編』/窪田般彌
休みの日は、家でのんびりゴロ寝しながら、詩でも読んでいるのが、結構な贅沢に感じられる昨今――、なんて悠長なことばかりも言ってられない師走の書き入れどきである。
とりあえず、年末に備えて休養を取りたいと願う。本日は、先日購入した『詩の朗読会 フランス編』/窪田般彌(河出書房新社)を読んだ。
編訳者である窪田般彌氏の作品を読むのは、今年の1月22日に哀しい訃報を聞いた以来のこととなる。
裏表紙に書かれてあったのだが――「何の説明も、何の予備知識も、何の解説もいらない。そこには、歌うような軽みと新しい発見と、そして感動がある」(先述の『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』の帯にも、C.D.ルイスの「詩とは、まず何なによりも先に、楽しむべきもの」とあった)――なるほど、シチュエーションや文学史的な成り立ちは抜きにすれば、平易な現代語訳でとても読み易く、現代人の感情にも近いストレートな叙情詩が多く含まれ親しみ易い。
ジャン・コクトーの『楽しみを味わいすぎると……』の冒頭――、「楽しみを味わいすぎると、幸福は損なわれる。」に、そういえば三島由紀夫も小説の中で似たようなことを言っていたな……とか、ジュール・シュペルヴィエルの『炎の先端』の「そしてしばしば手を 炎の上に差しかけ 自分は生きている まちがいなく生きている、 と納得した」に、そういえば自分もかつてガソリンスタンドでアルバイトをしている際、工業用石鹸で何度洗っても落ちない指紋に染み込んだオイルの黒ずみに同じ感情を抱いたことがあったな……とか、楽しみ方は人それぞれ。
確かに、「フランス詩は韻が美しい」とか、いろんな読み方をアドバイスする書籍も多く出ているようだが、正直フランス語なんて、学生時代に毎年再履修だった私にしてみれば、訳者の力量や傾向に頼る他ないのであって、日本語訳で読んだからといって楽しめないものでもない筈である。
そして半世紀以上も、あるいは何百年も昔から読み継がれている、これら「詩」の魅力にとり憑かれるのは、大抵多感期である若い時分――、14歳~22歳くらいまでの間が最も強いでのはないか?と推測する。現に自身のホームページを気軽に開設出来る昨今では、自身の書いた詩を発表している方を多く見かけるようになった。
内容の多くは、見てる方が照れてしまうような恋愛系の詩か、見てる方が心配になるくらい自虐的な詩。いずれにしても共通して言えるのは、面と人に向かって発するには気が引けるような内容のものが多い気がする。思いのたけを正直に綴るには、今では特に規制のなくなった「詩」という文章形式が最も手頃で、入り易かったのかもしれないと感じた。
話は変わるが、最近、イラクで殺害された外交官奥克彦さんの『イラク便り』に少し目を通す機会が増えた。
もちろん、先に書いた「詩」とは全く性質が異なるものだと思うのだが、「思いのたけを綴った」という部分では、非常に生々しいドラマで、奥さんたちをはじめとしたイラク復興に寄与しようと努力されている方々が、いかにイラク復興のため、テロ撲滅のために考え、行動していたのかが伝わってくる。
「ことば」を残すという行為について、以前、澁澤龍彦の遺作小説の中で、ある種のプラグマティズムのような思想を読み取ったといったようなことを書いたことがあった。奥さんは決して、自分が死ぬと思ってこの『イラク便り』を書いていたわけではない。常に前向きで、いつかイラクと日本との仲が回復して、願わくば世界中の人たちが平和になると信じて、自身の仕事をまっとうされていたのだなぁと、改めてしみじみ思うのだった。そんな心境で、本日の詩篇(『詩の朗読会 フランス編』/窪田般彌)を読むと何だか哀しい気持ちになってくるのであった。
※以下引用
(前略)
ルウよ僕がかなたで戦死しても 忘れられてしまう思い出よ
――時には思い出しておくれ 狂気の沙汰と
青春と愛と はちきれんばかりの情熱の一瞬に――
僕の血 それは幸福の燃えたつ泉だ
そして誰よりも幸せになっておくれ 一番愛くるしいお前こそ
(後略)
※『僕がかなたで戦死したなら』/ギヨーム・アポリネール
最初の方で「詩」とは楽しむものと言っておきながら、読んでたら哀しくなってきた……。短い散文形式の文章に込められた痛烈なメッセージ。一体そこから、どれだけの共感や感動を得られるのか?そんな期待感につい引き寄せられてしまう。「詩」にはそんな魔力が秘められていると思った。
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