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2003年12月19日

『暮しの手帖 保存版3』(花森安治特集)

※旧「楽天広場」時代のブログより転載。

 『暮しの手帖』と言うと、暮しの手帖社(前身は、雑誌『スタイルブック』というファッション誌を発行していた「衣裳研究所」)から昭和23年9月に創刊された雑誌で、未だに出版活動を続け、固定的なファン層を抱える人気雑誌で、この楽天を利用する中にも愛読者の方は多いかと思う。

 私にとっては、「暮しの手帖」と聞くと、かつて読んだ、山本夏彦翁の私の岩波物語中での逸話と、学生時代に書店で手に取った花森安治の編集室(晶文社)という本で読んだくらいの知識しかなく、幼少時代を少年誌を読んで育った私としては、ただ漠然と「広告の一切ない珍しい雑誌」、それから広告を排除したイコールスポンサーのいない雑誌として、「商品テスト」なるコーナーを持った雑誌というイメージ程度があるくらいであった。また、松岡正剛氏のサイトでも論評があった

 『暮しの手帖』は、実は母が好きな雑誌だったようで、家でときどき見かけることもあるし、編集長を務めた花森安治らと共に創刊に携わった大橋鎮子(社長)さんの書かれたエッセイ集、すてきなあなたになどがあって、何気ないときに何気なくめくってみると、独特のエスプリに満ちた文章で心地よく感じるときもあった。

 話を戻すと、今回採り上げた『暮しの手帖 保存版3 花森安治』は、雑誌というよりも、ムックの形式の本である。ムックの面白いところは、総じてアンソロジー的な構成となっているので、言わば入門編となり得ると同時に、熱烈なファンにとってもコレクションアイテムとなり得るところだと思う。

 この本の中には、東京大学文学部美学美術史学科を卒業された編集長、花森安治氏の有名な『暮しの手帖』の表紙絵コレクションや、単行本の装丁、他にも自社広告のデザイン集や、挿絵用のカットやイラストレーションなどが特集され、戦後という時代をタイムリーに生きたことのない私でも、その独特なテイストにいくらかノスタルジックな雰囲気にさせてくれた。

 さらには、先述した「商品テスト」に絡む有名な一連のエピソード群――、たとえば、「石油ストーブから出た火はバケツの水で消えるのか?」という"商品テスト"においての、暮しの手帖編集部VS消防庁の「水かけ論争」や、数々の花森語録――、たとえば、「ジャーナリストは二十四時間公人だ」「今度の戦争に、だれもかれもがなだれをうっていったのは、一人ひとりが自分の暮しを大切にしていなかったからだ」といったような名言(迷言?)などがたくさん書かれていて、花森安治氏というある面で戦後の異端者の人となりを伺うことができるようになっている。

 私はもちろん、生まれてこのかた出版や編集といった仕事とは無縁だし、もちろん公私ともに暮しの手帖社とは一切関係のない立場にある。言ってみれば、単なる一消費者(生活者とも言い換えられるか?)でしかない。そんな私がこの本を読んで感じたことは、日本が(第二次世界大戦の)終戦を迎え、ちょうどメーカー各社が台頭し始め、モノ創り第一主義となっていった時代に、人々が望んだ「良い暮し」という時風に、現在の画一的な消費者迎合的それとはどこか違う異端性を発揮させた人なのだなということである。

 また、先ほどは編集に携わったことはないと言ったが、広義の意味で「編集」を捉えれば、自分の今の仕事と全く無縁なものでもなく、もしそのような仕事に再び出会うことがあったなら、根底に一貫した強いポリシーのようなものを掲げて「編集」していきたいと思った。

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2003年12月07日

『詩の朗読会 フランス編』/窪田般彌

 休みの日は、家でのんびりゴロ寝しながら、詩でも読んでいるのが、結構な贅沢に感じられる昨今――、なんて悠長なことばかりも言ってられない師走の書き入れどきである。

 とりあえず、年末に備えて休養を取りたいと願う。本日は、先日購入した『詩の朗読会 フランス編』/窪田般彌(河出書房新社)を読んだ。

 編訳者である窪田般彌氏の作品を読むのは、今年の1月22日に哀しい訃報を聞いた以来のこととなる。

 裏表紙に書かれてあったのだが――「何の説明も、何の予備知識も、何の解説もいらない。そこには、歌うような軽みと新しい発見と、そして感動がある」(先述の『ミラボー橋の下をセーヌが流れ』の帯にも、C.D.ルイスの「詩とは、まず何なによりも先に、楽しむべきもの」とあった)――なるほど、シチュエーションや文学史的な成り立ちは抜きにすれば、平易な現代語訳でとても読み易く、現代人の感情にも近いストレートな叙情詩が多く含まれ親しみ易い。

 ジャン・コクトーの『楽しみを味わいすぎると……』の冒頭――、「楽しみを味わいすぎると、幸福は損なわれる。」に、そういえば三島由紀夫も小説の中で似たようなことを言っていたな……とか、ジュール・シュペルヴィエルの『炎の先端』「そしてしばしば手を 炎の上に差しかけ 自分は生きている まちがいなく生きている、 と納得した」に、そういえば自分もかつてガソリンスタンドでアルバイトをしている際、工業用石鹸で何度洗っても落ちない指紋に染み込んだオイルの黒ずみに同じ感情を抱いたことがあったな……とか、楽しみ方は人それぞれ。

 確かに、「フランス詩は韻が美しい」とか、いろんな読み方をアドバイスする書籍も多く出ているようだが、正直フランス語なんて、学生時代に毎年再履修だった私にしてみれば、訳者の力量や傾向に頼る他ないのであって、日本語訳で読んだからといって楽しめないものでもない筈である。

 そして半世紀以上も、あるいは何百年も昔から読み継がれている、これら「詩」の魅力にとり憑かれるのは、大抵多感期である若い時分――、14歳~22歳くらいまでの間が最も強いでのはないか?と推測する。現に自身のホームページを気軽に開設出来る昨今では、自身の書いた詩を発表している方を多く見かけるようになった。

 内容の多くは、見てる方が照れてしまうような恋愛系の詩か、見てる方が心配になるくらい自虐的な詩。いずれにしても共通して言えるのは、面と人に向かって発するには気が引けるような内容のものが多い気がする。思いのたけを正直に綴るには、今では特に規制のなくなった「詩」という文章形式が最も手頃で、入り易かったのかもしれないと感じた。

 話は変わるが、最近、イラクで殺害された外交官奥克彦さんの『イラク便り』に少し目を通す機会が増えた。
 もちろん、先に書いた「詩」とは全く性質が異なるものだと思うのだが、「思いのたけを綴った」という部分では、非常に生々しいドラマで、奥さんたちをはじめとしたイラク復興に寄与しようと努力されている方々が、いかにイラク復興のため、テロ撲滅のために考え、行動していたのかが伝わってくる。

 「ことば」を残すという行為について、以前、澁澤龍彦の遺作小説の中で、ある種のプラグマティズムのような思想を読み取ったといったようなことを書いたことがあった。奥さんは決して、自分が死ぬと思ってこの『イラク便り』を書いていたわけではない。常に前向きで、いつかイラクと日本との仲が回復して、願わくば世界中の人たちが平和になると信じて、自身の仕事をまっとうされていたのだなぁと、改めてしみじみ思うのだった。そんな心境で、本日の詩篇(『詩の朗読会 フランス編』/窪田般彌)を読むと何だか哀しい気持ちになってくるのであった。

※以下引用

(前略)

ルウよ僕がかなたで戦死しても 忘れられてしまう思い出よ

――時には思い出しておくれ 狂気の沙汰と

青春と愛と はちきれんばかりの情熱の一瞬に――

僕の血 それは幸福の燃えたつ泉だ

そして誰よりも幸せになっておくれ 一番愛くるしいお前こそ

(後略)

※『僕がかなたで戦死したなら』/ギヨーム・アポリネール


 最初の方で「詩」とは楽しむものと言っておきながら、読んでたら哀しくなってきた……。短い散文形式の文章に込められた痛烈なメッセージ。一体そこから、どれだけの共感や感動を得られるのか?そんな期待感につい引き寄せられてしまう。「詩」にはそんな魔力が秘められていると思った。

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投稿者 cyberpoet : 23:13 | コメント (0) | トラックバック (0)