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2002年09月26日

【クレーム論考】 ~クレームは「火事」のようなもの?~

クレーム……。この世にクレームの一切ない会社などあるのだろうか――。

 中にはきっとあるだろう。しかし、対消費者向けのサービスを提供する場合、抱える顧客の数にも比例するものと思うが、サービス業とクレームは切っても切れない関係にあるように思う。

 幸い私の通う会社ではクレームが少ない。しかし昨今のプロバイダー情勢などを静観していると、投資の割に見返りが少なそうで、かつ顧客満足度の沸点はかなり高く、恩を仇で返されているかのような厳しい条件下に立たされているように見受けられる。そんな厳しい環境で育ったサポセンの方々は、ものすごい対応のプロなのだろうと推測する。

 不特定多数の人を十把一絡げに同一ないしは同類のサービス内容で満足させるのはまず不可能だ。ただし、だからと言ってそれがクレームの出る主因になるとは限らない。それにクレームが出た場合の立ち回り方というのが必ずある筈だ。最近ではそんな陰気なクレーム体験談も、本まで出版された程話題となった「絶対サポセン黙示録」のサイトなどのように、完全にパロディー化されるという明るい側面も表面化してきて、今まで包み隠されていた光景が一般の方の目に触れる程に社会的進出を遂げるようになってきているように感じる。

 また、最近では「クレームを顧客に変える!」系のタイトルで、いかにも美談・美辞麗句を書き連ねたのだろうと推測させられて止まないような本も多く出版されている。
 なるほど。確かに言い得て妙で、クレーム顧客に真剣に対峙・対応すると、その後優良顧客となるケースも時にはあるものだ。考えてみれば至極最もな話で、火のないところに煙は立たないように、サービスあるところにクレームありき!なのである。そもそもその火種のほとんどがサービス提供側が撒いているものなので、ある意味その対応のイニシアティブはサービス提供側が持つこととなる。とすれば、対応者の熟練度やセンスにもよるのだろうが、基本的にはある面で優位に立つことができるのではないだろうか?

 そう、先ほど「火種」という言葉を用いたが、私見だがクレームとは「火事」のようにも思えてならない。
はじめは本当に小さな火種だった(もちろん爆発からスタートする火事もある)。その火種が、燃えやすい乾いた木片に移り、火は大きくなる。その後周囲の燃えやすい素材(サービス提供側の過去の過失、約款などのような法的な社会的事実など)に飛び火し勢力を増してゆく。その地獄絵巻はまさに、現代のサービス業全般に共通して言える天災であり、人がときに自然の力に屈することのあるように、自分の信じている事柄から挫折しかけるのだ。

 その昔「東芝事件」なんていう事件があった。
私は詳細を知らないが、伝え聞いた話から想像するに、この事件の中で、ある面で言えば「開拓者(英雄?)」となったものが「消費者」であり、「犠牲者」となったものが「東芝」というだけだったような気もする。悪意はなくとも、未だに旧態依然とした体質の企業などで対応の悪いところはいくらでもあるようだが、それは「サポート」と呼称する部署ないしは個人に対して利用者がどこまでを求めるのかにも因ると思う。利用者のスキルや理解度、性格に由来するものなどもあるだろう。もちろん対応する側の経験値、話し方などのような基本的要素が原因することもある。

 このように必然とも偶然とも言いがたい、ある種数奇な運命をたどって「クレーム」は生成される。それはおよそ人知では計り知れない、無限の確率で起こり得るものである。
 もはや、今では他人事では済まされぬクレーム。下手をすれば、小さな組織では全焼もまぬがれ得ないことになりかねない。何かしらの対策を講じる必要性があるように思う。

 そこで私は考えた。私はクレーム処理を行う仕事をしているわけではないし、それほど対応の経験があるわけでもない。しかし、まだこの自然の摂理の公式に気がついていない方がいるのであれば、恐縮ながらこれを参考にしていただければ……と思い勇気を持ってこれを書こうと思い立った。今以上の悲劇を繰り返さないためにも!

「火は他に燃やすものがなくなれば、また酸素がなくなればいつか必ず消える」

 少なくとも私はこの公式を信じている者の一人だ。
これはもちろん、火事は放っておけばいいという話ではない。火種が他に移る前に、周囲の燃えるものを取り払え!という意味である。慌てて水をかけて消火しようとすると、油のように反応するケースもあるだろう。まず、どんな火事なのかを「ゆっくり急ぎ」ながら考えるべきである。

 あとは、消火の仕方さえ経験の中で学べば、ボヤ程度の火事にいちいち慌てなくても済むようになるだろう。とにかく最初はバケツ1杯の水をかけても、全く火は収まっていないように見える筈だ。しかし、大勢の人が連携して何杯ものバケツの水をかけたらどうだろう?放っておくよりも、確実に早く消火出来る筈である。いつかは消えるということを信じて、ひたすらに消火活動に励むのである。

 問題なのは、この「水」自体をどうするかである。
これこそがまさに、現実の貴重な「水」のように、皆にとっての大事な共有資源なのではなかろうか――。

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2002年09月24日

検索エンジン最適化 ~Search Engine Optimization~

 昨今、書店やネット上に「検索エンジン最適化」なる言葉が連ねられた書籍サイトが目立ち始めた。

 簡単に言えば、ホームページをヤフーをはじめとした各種検索エンジンの結果にかかりやすく、なお上位表示されるようにホームページのプログラム等に細工を施すことである。検索エンジンにいかに上位表示されるかで、もしかするとネットショップの将来を決めることにも繋がりかねないだけに、既に多くのサイトの管理者は必死で取り組んでいることだろう。そこに目を付けたビジネス戦略は、ある意味妥当だと言える。人々の「困った」ところにビジネス・商機は生まれるからである。

 このような動きが活発化した理由として無難な意見を述べるとするならば、楽天をはじめとする無数のショッピングモールはもちろんのこと、私企業や個人に至るまでこの10年であまりにも多くのページが作られ、それに伴って各サイト毎の競争が激化したことが主であろう。それを証明するかのように、ヤフーの「サイトの推薦・変更の方法」というページは、数年前まではその辺の個人サイトの検索CGIのように、「サイトの登録」と書かれてあった。その後の急成長に合わせたユーザーからの問い合わせやクレームの対応には、相当過酷な歴史があったものと思われる。

 検索エンジン提供側としては検索結果の「量」は最低条件としても、自社開発の道を捨てて先行するgoogleやLookSmartやovertureなどのように海外から進出してきた高性能の検索システムを導入するポータルサイトが増えてきている関係もあり、今では「質」までも求められる。ただ質とは言っても、単に絞り込みが出来るだけでは、例えば演算子を使った検索機能などを持ち出されても、ネット初心者だけでなく通常のネットサーファーからも使われないということで、検索行為自体の容易さ、階層の浅さということまで求められる。

 さらにアマゾンなどがかなり前から行っていた、検索結果に応じた自サイトへの誘導は、今ではキーワード広告やgoogleの発表したアドワーズ広告などへと引き継がれ、以前まで主流であったバナー広告やポップアップ広告などの既存媒体が衰退しつつあるのが現状だ。現に「クリック保証型バナー広告」の旗手であった某社も以前に手を引いた経緯を持つ。

 再度、検索エンジン最適化の話に戻るが、数年前まではあまり有名でない検索システム(ランキングサイトも含め)、特に個人が運営していると思われるものはおもしろいように意図的に検索結果を操作できた。METAタグをはじめとして、ページのタイトルや紹介文(サマリー、description)、登録時のキーワードを、もろに拾ってくるシステムが多かった。ひどい場合には純粋にページ内で使われているテキスト(文章)を拾ってくるものだから、背景白のページに白い文字で、旬の芸能人や検索人気用語がページ下方にずらりと書かれたページが流行ったり、画像の上にマウスのポインターを乗せたときに表示される「ALT」タグに必要以上に「キーワードとなる文字」を入れているサイトが少なくなく、今でもまれに(しかもコンサルティング会社を自称する企業のページで)、わざと工事中ページを作成し、そこに先のように背景に溶け込ませた文字でいっぱいキーワードを埋め尽くしたサイトを見かける。

 また、別ページの掲示板に書き込みをするのも、一昔前まではアクセスアップの常套手段であった。しかし、商用の書き込みを禁止するところが多く、OKだったとしても書き込み専用掲示板となるところが多かった。その掲示板の主な利用者層は書き込まれた内容を見たいという人よりも、自分が書き込みたいという人の方が多かったからだ。こういうパターンは、内容を見せる(魅せる?)工夫を怠ったために陥ったケースと見れる。

 そんな、群雄割拠の呈を示す業界地図の中で、気がついたら楽天傘下となっていたインフォシークが巻き返しを図ろうとしていると記事になっていた。
 私はたまたま今日の新聞の記事で見かけたのだが、少し前より試験運用している段階で、マルチメディア検索についてはその便利性を感じていたところであった。なんと年内に検索対象ページ数を1億ページにまで増やすということで、どんな仕組みで検索されるのかは分からないが、これでまた検索結果に変動が見られるような気もする。ただ一つ言えることは、どんなに検索結果の上位に表示されるようになっても一度見たらもう見たくないというページだったら、かえって目立たない方が良いとも思う。量より質が求められてくるのは、検索エンジンのシステムだけではない。ページそのものも同様なのである。

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2002年09月21日

ゲーム音楽とクラシック音楽の関係 ~カヴァレリア・ルスティカーナについて~

 幕張で開かれている「東京ゲームショー2002」が日曜日で終わるようである。この手の催しには一度も行ったことがない。
 小学校を卒業した年の春に、舞浜の東京ベイNKホールか何かにドラクエのイベントで行ったきりだ。

 私はその昔はゲームやゲームミュージックが好きな時期があった。PS2以降は、情けないながら買ってしまうとハマってしまい、人生を棒に振る恐れがあったため恐くて買えなかったものである(笑)。

 そのドラクエで思い出すのが、当時私もレコードやカセットテープを大量に買ってしまったクチなのだが、音楽を担当したすぎやまこういち氏だろうか。氏はJASRAC(日本音楽著作権協会)の役員も務めている。

 ヒットした代表作「亜麻色の髪の乙女」や、ピーナッツの「恋のフーガ」、ガロの「学生街の喫茶店」、アニメ「イデオン」のエンディングテーマ「コスモスを君に」の曲などの中にドラクエ音楽の源流が見えるか分からないが、牧野アンナの歌った、ドラクエ2のパスワード入力時の「LOVE SONG 探して」や、週刊ジャンプの綴じ込み「ファミコン神拳」か何かに出たドラクエ2のエンディングテーマ「この道わが旅」の歌詞などには、幼心にある衝撃を受けたものだった。

 他にも小学校から中学時代くらいまで聴いていた日本ファルコムの音楽や古代祐三、ウルティマの後藤次利、元VOW WOWのkey.厚見玲衣や、プログレ界の難波弘之(key.)など、とにかく私の小学校当時はゲーム雑誌「BEEP」の付録としてソノシートが付いてくるほど、ゲームミュージックというものが熱いモノであった。

 その中でヒットした多くのゲームミュージックの形態が、オリジナルの電子音よりも、きちんとオーケストレイションされたものであった。元来私はクラシック音楽というものをあまり聴いたことがなく、強いて言うなら学校の音楽の授業の中くらいであった。

 ただ、一緒にすると不快に感じる人もいるかもしれないが、私には何となくゲームミュージックの影響で、クラシック音楽の好みが決まることがまれにあった。

 昨今、岩波書店などを筆頭に文庫や新書などが人気で、過去の絶版本の復刻などが目立つ。その昔、マスカーニ作曲の「カヴァレリア・ルスティカーナ」という曲を好きになったことがあった。これは近代イタリア文学作家、ジョヴァンニ・ヴェルガの同名作品(岩波文庫)があり、マスカーニがそれを原作として書いたオペラ曲だった。

 その曲からスタートして、ありがちなゲームのストーリーと、それに合うような音楽の選曲を試みたことがあったので、そのときピックアップした曲を以下に列挙しようと思う。いろいろ突っ込みたい人もいるでしょうが、どうかお許しを……。

ゲーム・タイトル:「カヴァレリア幻想奇譚 ~ルスティカーナの美少女~(仮称)」

(※舞台は中世の架空の国や都市。いつだってこのモチーフは廃れない……。)

1、オープニング(あらすじが縦スクロールで上から下に流れてフェイドアウト、行書体)
例:「戦乱の世、人々は相次ぐ天災による作物の不足に窮乏を呈していた――」等。

「カルミナ・プラーナ第1曲:おお、運命の女神よ」/オルフ

2、ルスティカーナ村~主人公が謎の少女と出会う。

「亡き王女のためのパヴァーヌ」/ラヴェル

3、回想シーン?~主人公と謎の少女が結婚の儀を交わしている。新国王として国民の歓声を受けている。体中をつたう異様な汗に目を覚ます。不吉な予感を感じてか、悪夢にうなされて目覚める。

「交響曲第3番~第3楽章」/ブラームス

4、村が焼かれた!~逃げ惑う村人たち、何者かが気絶した主人公を地下壕へ運ぶ。

「スラヴ舞曲 第10番」/ドヴォルザーク

5、決意!~何もなくなった村で一人墓を立ててまわる主人公、人知では計り知れない惨劇の跡。異世界の存在を感じとる。突然、右脳を襲った激痛。過去の惨劇が脳裏をよぎる!

「ソルヴェイグの歌」/グリーグ

6、旅立ち(草原)~育ての両親を失った主人公と謎の少女。懐かしい匂いのする?未知の土地へ出発。

「愛の悲しみ」/クライスラー

7、カヴァレリア城~"謁見の間"にて国王と対面。

「オーボエ協奏曲」/アルビノーニ

8、臨時戴冠式~孤児の?主人公に数奇な運命が訪れる。"真実を知る者"とは誰なのか……?

「G線上のアリア」/バッハ

9、神殿~勇者転身の儀を交わす。カヴァレリア国の地に古くから伝わる伝説の勇者の話を聞かされる。

「精霊の踊り」/グルック

10、謀略~長きに渡る隣国との政治的軋轢からついに交渉は決裂!歴史に残る大戦争へ!

「交響曲第9番 ニ短調 第2楽章 作品125 モルト・ヴィヴァーチェ」/ベートーヴェン

11、鎮魂歌(レクイエム)~絶大な国力をつけた隣国の政治的背景に、隣国国王の召還魔術の儀式があったことを知る!国王に騙された絶体絶命の主人公をかばい、悪魔と相死にする少女の兄(途中で仲間)。

「夢のあとに」/フォーレ

12、エンディング~村で少女の兄のために墓を立て花を添える主人公。自分が誰なのかを知るため、少女と新たなる冒険へ旅立つ。謎の少女が実は、自国の王女だったことが判明する。

「カヴァレリア・ルスティカーナ 間奏曲」/マスカーニ

【参考サイト】
All About Japan [ゲームミュージック] 島谷ひとみとドラゴンクエスト

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2002年09月13日

デビアスLV社、消費大国ニッポン進出? 「永遠の輝き」に隠された闇

 「ダイヤモンドは永遠の輝き」のコピーでも有名な、ダイヤモンド世界最大手のデビアス社。そして昨今またもや大ブレイク中のブランド、ルイ・ヴィトン等を有する高級ブランドグループのLVMHモエヘネシー・ルイヴィトンが設立した新会社デビアスLV社。

 今年末にロンドンに旗艦店をオープンさせる予定とのことで、この度そのCEO(最高経営責任者)が来日したという。CEOが言うところの「日本は全世界の売り上げの三割を占める市場になる」という憶測の元、来夏に日本で記念すべき2号店をオープンさせるためのテナント探しでの訪問と言われる。

 このダイヤモンド、おそらく私にとっては生涯無縁な代物。私の誕生石でありながら、最も高価で最も硬質で、最もきれいで輝いていて――、なんでこれほどまでに自分とは不釣合いなのかと神を嘆きたくなるダイヤモンド――。

 実は昨年の対米同時多発テロ事件後にも話題にのぼったことがあった。それは、「ウサマ・ビンラディン(やアルカイダ)がシエラレオネ産のダイヤを資金源にしているらしい」との風評を受け、アフリカ各地の反政府勢力支配地域で採掘されたダイヤモンドの米国への輸入を禁じる法律が施行されたのであった。

 ここで誰もが思いつくのが、経済大国アメリカでダイヤモンドを輸入出来ないのであれば、他国が買い付けることにはメリットがあるのではないか?ということであろう。そこにただでさえ魅惑的且つきな臭いダイヤモンドの闇市場が作られたとしてもおかしくはない(実際は知らないが)。

 ダイヤモンドは供給量などの安定を図るため、基本的には中央販売機構と呼ばれる機関と、そこが認定した全世界の200社弱の企業がその流通等を担っていると言われる。しかしその実態はデビアス社による支配が相当に及んでいるようだ。

 デビアス社の歴史は調べていけばいくほど奥が深く、私が知っている知識などは極表面上のものでしかない。デビアス社の創始は一ユダヤ人の手によるものと言われ、その後も関係した人物には豪商などが多い。そしてダイヤモンドという世の中で最も価値の高いこの鉱物は、もともと第2次世界大戦後に国の復興を目指すイスラエルの国々で産業が発達した際に貢献したという経緯を持っている。ところが1980年代のバブル真っ只中、イスラエルで膨れ上がるダイヤモンド市場が脅威になると、「もう一方」からの金融的な巨大な圧力(買占め、輸入規制、市場コントロール等)がかかってくる。そこでイスラエルの方では、研磨工などをはじめとした失職者が数千人規模で発生したとも言われる。

 たとえそれがマホメット(ムハンマド)の時代から続くイスラムの国々が相手であっても、ユダヤ系企業というより一巨大企業として、デビアス社はその宿命対決をまぬがれ得なかったのだった。またそれは、マスコミなどが報じるニュースに尾ひれがついて、人々の間にゴシップとして広まってゆくのでもあった。ここに「事実は小説よりも奇なり」という言葉を思い出す。ある意味、どんな企業スパイ物小説よりも面白いテーマが見えてくるように錯覚する。なんの先入観もなく純粋に考えてしまうが、もしかしたらあの狂気の事件は、私が考えていたよりももっとずっと深い位置に発端の根を張り、気が遠くなるほどの悠久の年月を以って、その機会を長い間窺っていたのかもしれない――と考えるようにまでなってしまった。

 ダイヤモンドは僕らから見ればファッションやステータスや見栄の一つにしか過ぎない。でも違う国から見れば、ある意味でもっと崇高な、もっと稀少なものだったのかもしれない。国の存続、繁亡に関わるような重大な産物、資源、生活に直結しているため、ある意味での絶対神とも言えなくはないだろうか――?

 私たちには実はもっと、理解しなくてはならないことがあるのかもしれない……。

※参考ページ
購入者の側に立ったダイヤモンド入門

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2002年09月11日

失われた"動機"を求めて――。

 音楽用語に「動機(モチーフ)」というものがある。

 これは一般に、テーマ(主題)を構成する最小限の音楽単位である旋律のこと言う。広義にリフなどを意味することもあるが、主にはメインテーマまでの布石、きっかけとして用いられる用語だと思っている。

 リルケの詩に、「音楽」の起源が記されていた。
ギリシャ神話の挿話中、オルフェウスの弟として描かれる音楽家のリノスがヘラクレスに殴殺された際、リノスの死を悼む人々の慟哭が響き渡ったものが音楽となったというものである。

 物事には必ず、これらのように何らかの「動機」がある筈である。動機によって、その後を構成する主題が決まると言っても過言ではない。動機に裏づけされていない行為はミステリアスだが、音楽の個人的趣味に限って言えば、動機の不明なメロディーほど理解に苦しむものはない。

 最近に限ったことではないが、バラエティーやルポを題材としたテレビ番組の構成等によく見られるが、明らかに結果があって番組が構成されているかのような編集が多々ある。将来の設計に悩む若者に対するゲストコメンテーターの言葉も、妥当な意見を述べるので一見正当なものに見えるが、よくよく考えてみると結構無責任なものだったりすることが多い。これは番組の主旨が、あらかじめ「目的意識のないフリーター生活を早くに脱却して、きちんとした社会人になれば夢が叶う、もしくは夢を貫けばフリーターからでも憧れの仕事に就ける」といったような「主題」を元に構成されるから、そういった表面上だけの、見え透いた中身になるのではないか?と推測する。

 何か事を起こそうとするときには、必ず動機付け(モチベーション)というものを欲する。これがないまま闇雲に行動すると、後々空虚な思いを抱くようになることが少なくない。

 企業でも個人でも、創始者や自我の持つ動機を忘れ、ただ「主題(現状)」と「結果」だけを追い求めた結果、展開はあらぬ方へいき、ポリシーや本心に反する行動に出たりすることがあるのではないか?

 「何かがおかしい」「どこか変だ」

 皆、何となくは気が付いていても、全体的なゆっくりとした情勢や感情の変化が、その間に起こる重要な異変について感知するのを遅らせる、ある種の麻痺状態を引き起こす。

 何かを作り上げては壊し、作り上げては壊し……、人間は何かを壊してからでないと、新しいものを作り出すことが出来ないくらい、初めて火を起こした時代からしばらくの時を経て創意工夫の精神を忘れてしまったのか、それとも余りに多くの発見をし過ぎてしまったのか……。そんなことを考えた一日だった。

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2002年09月10日

よりメンタルに、よりエモーショナルに……。

 「願ったことはいつか必ず報われる!」
――そう信じて物事にあたっていくことは決して無駄ではないように思う。

 学生時代に読んだ本で、気に入っているもので【『類推の山』/ルネ・ドーマル著】という本がある。たとえ結論が最後に出なかったとしても、確信を掴んだ事柄に際して、とことん突き進む姿勢には心打たれるものがある。

 今日読んでいた新聞に、私の好きなチョコレート菓子「白い恋人」を長年作り続ける北海道の石屋製菓の社長、石水勲氏のインタビュー記事が出ていた。

 その中で社長は言う(正確な抜粋ではありません)。

「笑う人もいるかもしれないが、お菓子を作るときに私は従業員に対して、"もっと美味くなれ!"と念じながら作るようにと指導しています」

 ――というものだった。

 私はもちろんこの手のおまじないや占い的な類のものに全くもって興味がないのだが、純粋に「マインド(・コントロール)」の一つとして捉えると、非常に重要な要素に感じた。

 なぜなら、先のような「おまじない的行為」を笑い飛ばせるような人間が、まず昨今いるのかどうか疑わしいからである。労組などが自社の犯す犯罪を内部告発するほど、利益追求の極地をいき、大手企業が自ら先陣きって瀕死状態であることを世にさらけ出し、株価不安の中更なる景気低迷に一役買ってしまうような格好となっている滑稽な世の中である。

 極一部の者の考えなのかもしれないが、彼らの唱える拝金思想こそが、当たり前だがメーカー(製造元、作り手)として、最も行ってはならない行為を生み出した悪の元凶ではなかったか?

 確かに企業が利益追求を行う場合、大きく2つのやり方しかない。一つに、アイデアや付加価値を付けて単価を上げるやり方。二つ目に、スケールメリットを利用して仕入れ値を下げたり、中間マージンをなくし原価を下げたりするコスト・パフォーマンスの向上を図るやり方。

 アイデアも投資も人材も何もかもが出尽くし、競争激化によって企業の基礎体力だけの勝負になると、勝負事と同じで、ずるい行為に走ったり、あからさまに負けを認めたくなるようになるところが出てきたりする。

 産地・日付・成分表示の偽装問題にしても、全社的なソフトコピーの問題にしても、脱税なんかにしても、早期撤退にしても、みんなそれら企業自体の慢性的疲労、もしくは過度の焦りに因るものではないのだろうか。もちろんある程度の社会悪は必要であり、きれい事ばかり並べててもうまくいくはずはないのだけれども……。

 また、日本経済が現在のようなマクロなものに移行する以前、「製造」という行為こそが経済を支える支えであり、国力の証明でもあったのではなかろうか。

 「誰よりも良い物を作りたい!」――そういう職人的な、ストイックな考えの作り手は減った。というより抹殺された。逆に「どうしたら儲かるか?」「どうしたら消費者の気をひけるのか?」そんな類のものだけが、「ブランド戦略」だの「キャラクターマーケティング」などのような、その本を販売するためのレトリックだらけの衣を着せられて書店を埋め尽くし、本末転倒も甚だしいご時世だと思う。

 少し前に日本3大デザイナーの一人である川久保玲さんが、昔に取引されていたという織物業社の衰退を嘆くドキュメンタリーが放映されたことがあった。廉価販売を推進する企業が増えるのは、正直今の私たちにとっては嬉しいことなのだが……。

 本当に大切なものは、先の石屋製菓の姿勢ではないが、恒久的な日常の中の「もっと美味くなれ!」という作り手の気持ちであり、これは開発者や一般個人の趣味的問題にまで派生する考え方だと思う。

 私自身、自戒の念を含めて今後は取り組んでいきたいと思っている。たとえばメールでクレームをよこしたお客様の元に、実際訪問してお詫びしてみる。パソコンばかりの世の中、人間不信の念が高まる中で、こういったアナログ的なコミュニケーションの効果は絶大であったりする。メールでの文体は厳しいが、実際に会ってみると話の通るお客様だったりすることが多い。そして面白いことにクレームを形成している要素のほとんどが、「怒っている」のではなく、ただ「困っている」だけだったりするのである。

 よりメンタルに、よりエモーショナルに……。私のチャレンジは続く。

カテゴリー:[ 雑事断章 ]

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